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加藤悦康(歴史・軍事研究家)
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戦闘開始

 山県ら諸隊は、武力解除すると見せかけている間に戦闘準備を整えました。1月6日、武装解除の使者を歓待した上で、先遣隊の布陣する絵堂に対して、秋吉台を迂回し、7日午前3時ころ夜襲を決行しました。この攻撃は、完全な奇襲となり(戦書の通知は実行されています)、絵堂の先遣隊はパニック状態に陥り、一ツ橋まで後退しました。奇襲部隊は地形の不利から、絵堂に留まることなく、大田の布陣に撤収しました。この戦闘は諸隊が洋式の軍事訓練を受けた後の初陣であり、勝利は大きな意味があると思われます。一方、藩庁軍は、諸隊の戦力を過小に評価して侮っていたと思われます。

 藩庁との戦闘を開始したことによって、諸隊は物資補給・軍夫補充の手段を失うこととなりました。そこで1月6日に使者が小郡に送られました。7日、大庄屋の林勇蔵(小郡)は、藩庁の命令に反して、諸隊への援助の意思表明をしました。大庄屋の林は、諸隊に所属している玉木氏に個人的恩義があり、そのために支援した面もありますが、それだけの理由でこれだけの援助をしたのかは、はっきりしません。当時の藩庁(俗論党)が民衆に人気がなかったという背景があったことも影響したと思われます。なにせ、諸隊の主力は農民・町民であり、これに対立する藩庁という構図になっていたからです。

【1月10日】午前10時ごろから、萩野隊(藩庁軍)が長登口より攻撃を開始しましたが、奇兵隊・八幡隊・南国隊などが同地を堅守し、正午ごろには戦闘の終了をみました。午後2時より大木津方面より撰鋒・力士隊(藩庁軍)約200名の攻撃が開始されました。この方面の守備隊は少なく、地雷の敷設してある川上まで後退し、地雷攻撃を意図しましたが失敗しました。このため、大田の本陣近くまで攻め寄せられ、山県自らが一隊を率いて駆けつけ、防戦に努めました。その間に敵右翼(藩庁軍)に廻り込んだ勇士達が、側面攻撃をしかけ、形勢は逆転しました。午後2時ころには撰鋒隊・力士隊は後退を始めました。この日、奇襲ではなく、正面から武士の軍隊と農民の軍隊が衝突したわけで、諸隊の実力が初めて発揮されたときでもありました。藩庁軍の連携の悪さが気になります。大木津方面も、午前中に攻撃しておれば、守備隊が川上に後退した後に蔵上を通って、長登守備隊の後方に進出して挟撃態勢ができていたのではと思います。

【1月12日】三隅に滞陣していた児玉若狭の軍600名が嘉万村に進出しました。そこから綾木村九瀬への進出予定でしたが、綾木の児玉領の農民から、進出しても勝利は難しいとの情報がありました。このため、児玉勢は火器・物資等を秋吉宿に預けて三隅に後退しました。しかし、予定通りに九瀬原に進出しておれば、諸隊は小郡からの補給線が切断された上に、大田そのものが包囲下に置かれ、諸隊は非常に苦しい状況に追い込まれていたと思われます。その点から考えても、なぜ農民の情報を鵜呑みにしたのか疑問が残ります。その上、なぜ、火器・物資を敵陣近くに置いて行ったかも理解に苦しみます。

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