_塚本三郎元民社党委員長小論集_ _当会支部最高顧問、塚本先生世評_
男はどこへ消えた     平成二十三年十一月下旬    塚本三郎

 秋は祝日が多い。土、日に付けて祝日も重ねた三連休が珍しくない、休日には一日中、机に向かって読書し、退屈になってテレビをつけ、いっときは尺八を吹く。

 二日も家に居れば退屈になって、妻を誘い気分転換のつもりで街中に出る。

 勿論、目的は妻の好むデパートであり、外来のブランド店が占める流行物である。

 一々品を確かめ、値段を調べてみても「セール」の看板程に値下げしていない。円高なのに、「デパートはユーロと関係ないのね」と店員に愚痴る。最初から買う気がなくとも、一言非難だけは残して歩くのが彼女のクセ。と言えば怒るだろう。

 どの通りも若者達で溢れている。さすが我々老人はお呼びではないらしい。

 だが眼につくのは、女性の元気良さである。通行者の八十%は女性である。二十%は若い男子が、女性に手を引かれて歩いている。

 両側の店、特に名古屋は街路が広いため、街の中心部は、道路下の地下街がにぎわう。約三百店程の商店の中で「男もの」の店は三軒より見当たらない。店は女性中心だから、歩く人も女性とならざるを得ないのだろう。

 一服しようとコーヒー店を覘くが、九十%は若い女性の群れで、男は入ることを禁止されているのではないかと疑うほどである。

 買い物袋をぶら下げて、さも得意気に歩く中年女性は、混雑する道をわがもの顔で歩くが、対向の人を避けようとはしない。私が避けなければ、相手の下げる買物の袋に「ぶつかる」。それでも「ごめんなさい」とは言わない。「あなたはなぜ除けないの」と言いたい顔でニラミツケル。

 この二十年ほど、若い女性に「どのような男性を好むか」と尋ねると、きまったように「優しい人」という。私の青春時代には、誰もが「男らしい人」に憧れたものだった。

 今では、男たちが女性に迎合する。議会議員が、選挙民やマスコミにへつらうように、青年たちは、女性に好まれたいと努める。

 日本から男がいなくなった。「優しい男」は、ついこの間までは「優男」やさおとこ、と言って、頼り甲斐のない男か、ふしだらな女誑しとみられて軽蔑されていた。

 男性たちが、テレビが垂れ流す愚劣な番組の影響によって、饒舌になった。

 日本が国家として男らしさを失った最大の原因は、アメリカに国の安全を委ねて国としての自立心を失い。羅紗面国家(ラシャメン)になったことである。かつて西洋人の妾になった日本女性を、そう呼んだ。

 東京は首都であるのに、国軍である自衛隊の制服を着用したものの姿を、全く見ることがない。世界のどこであれ、首都では、その国の軍人が制服姿で闊歩しているのを見るものだ。               (外交評論家 加瀬 英明 『カレント』より)



 テレビをつけると、その主人公の九〇%は女性である。出演者はすべて美しく、きれいな発声だから、テレビ向きであることは、うなずける。

 だが、その内容もまた、女性特有の番組で、男性はお呼びではない。もちろん、男性は職場一辺倒だから、視聴者として、テレビと付き合う時間が無いようだ。それゆえか、テレビの内容も、食べもの中心で、出演者の声は「おいしい」の連発である。

 そんな家庭の中で育った子供達は、自ら女性的な男とならざるを得ない。

日本に日本人らしい男が居なくなったのは

㈠ 東京裁判で日本を侵略国家と悪徳呼ばわりし、歴史認識を偽った。

㈡ 公職追放によって、国家への献身者を追放し、そのあとを敗戦利得者に受け継がせた。

㈢ 教育勅語を禁止させ、日本人に人間教育の根本を消失せしめた。

㈣ 新憲法を押し付け、日本社会から、平和の美名により、平等と権利の主張中心とした。

㈤ 防衛力を否定し、その上、自主独立の魂と、経済中心の強欲社会に向けさせた

一.東京裁判

東京裁判は裁判ではなく、日本国家こそ侵略国家であり、平和を侵した世界の犯罪国家であると、宣言するための、歴史偽造の猿芝居であった。

勝者のみの検事と裁判官で構成しており、これは本当の裁判ではない。

被告とされた日本の指導者の上申書は、すべて却下された。

唯一、中立国家代表の印度代表パル博士は、日本無罪を判決した。

そして五十年を経て、旧戦勝国から情報公開が行なわれ、満州事変、日支事変、大東亜戦争など、勃発の原因が日本ではないことが公表され、東京裁判の嘘が暴露されつつある。

二.公職追放

A級戦犯は死刑と断罪され、必死に日本の戦争に協力をした人達は、すべて犯罪人とし、日本国家の将来に対して平和の敵として追放された。

地域に於ける、町内会長の一人ひとりにまで追放が下され、公職に就けなかった。

その代わりに、戦時中日本国家、社会に命運をかけなかった人が公職に就いた。

国家に貢献しなかった人こそ、平和の人と呼ぶ、世に言う「敗戦利得者」が、教育を中心とする「公の場に座って」日本を指導した。

三.教育勅語禁止

日本が、全世界を相手に、曲がりなりにも数年に亘って互角の戦争を続けて来たのは、国家中心の教育こそ、日本人の在るべき人倫の道であるのに、敵対した立場から、犯罪のと判定して、教育勅語を悪の根源に仕立てた。

而も、日本の議会で、自発的に禁止を決議せしめた、卑怯な占領軍の指示だった。   

 男らしい男と一緒に生活した戦前の夫婦と異なり、戦後は優しい男と共に、産み、育てられた子供が、今や大人となり、孫を産み育てる親の立場に変われば、その孫たちは、すべて男らしさは失われてゆく、当然の運命である。

 男が職場で働き、得られた給料も家庭の口座に振り込まれる。その結果は一家の共働き生活の所有財産と変化する、夫の価値を示す場がない。
 せめて、主人が、月末に戴く月給袋を自宅に持ち帰り、女房や子供の前で、月給の有り難さ、嬉しさ、職場への愛着と感謝の気持ちを語れば、まともな社会人として男の自負心が表現されるのであろうのに。

四.新憲法の押し付け

 日本国家の生存と安全はアメリカが護るから、自主防衛は不必要だと、占領軍が新憲法を押し付けたのは、日本が再び強国になることを恐れたからである。

 勿論、日米同盟と呼ぶ名によって、日本国内に在る米軍基地を自由に活用して、アジアに於ける支配権を維持し、かつ中国、朝鮮半島、及びロシアの、日本への侵攻を喰い止めることを主目的としたことは否定しない。

今一つは、日本が暴発しないよう、ビンの蓋の役を果たしていると考えているようだ。

 特に、独立国の自主防衛の否定と、国民の権利の主張は、即国家権力の弱体化となる。

弱者を護るのは強者の義務であり、権利でもある。それは国家対国家のみではない、男性が女性に対しても同様である。

 日本では強者の義務と権利を男性から消去し、自由と権利の強調を女性に扇動した。戦後の日本から男が居なくなった根本の一つは憲法に在るとみる。

五.防衛力軽視と強欲政治から、自主独立へ 

 自主防衛を自ら否定し、すべてを同盟国アメリカに委ねて、日本は専ら経済活動によって、お金儲けに全力を傾ける商人国家に堕しつつある。その目標はやや達している。

 だが、商業やお金儲けのみが、国家、国民にとって決して満足すべきものではないことは、ユダヤ人が、イスラエルの建国に命運を尽くしていることでも判ると思う。

 従って、日本も戦前の強国であった姿を否定するのではなく、アメリカの支援を徐々に削除しつつ、その削除した部分以上に、日本自身が、強力な自立心と国防力を築き上げることが日本の在るべき姿である。

この度の天災は、日本の国の姿を一変せしめる為の、神・仏の御忠告と受け止めよう。

 二〇一一年三月一一日の東日本大震災は、日本人には未だ男の魂が消えていない。その姿を如実に示してくれたのが、自衛隊の貢献である。男としての、すべての能力を発揮してくれた。その姿を全国、否、全世界にも結果として誇示したことになった。

 東電担当者、政府原子力責任者、と共に献身した姿は日本人の誇りを示した。

 アジアに於ける、中国の最近の居丈高の軍事力増強と対比して、アメリカの国・内外の事情から塹減しつつある防衛力は、ことアジアに関する限り、日本が補うことは日本の責任であると共に、日本には、その能力と使命が在る。

その為には、日本の青年に、徴兵制の是非を検討する時期に来ている。少なくとも青年に、国防教育と、団体訓練と、共同生活に依る練成の場を設けることを提唱する。

 世界一強力な軍事力によって、防衛力、とりわけ核兵器の傘の下で育った日本の男子は、自然に男らしさが失われてしまっている。誠に残念なことである。

 人間は環境によって大きく支配される。戦前と戦後の日本男子を比べてみると、余りにも異質に見える。その主たる原因が、国家の防衛力の有無に在ることは申すまでも無い。

 僅かに残された、日本男子の真の雄姿が、はしなくも、今回の東日本大震災に取り組んでおられた、自衛隊の活躍に充分発揮されている。

 自衛隊員こそ真の日本男子本来の姿だと、各隊の指揮者は自信をもって誇示している。

 自衛隊は武力をもって、国家の安全を守る任務が在るからである。

それは、隊員には強く正義心に燃えた魂が根底に在る。そして日本の周辺に蠢く、共産主義国家の、嘘で固めた宣伝を打ち破る、教育勅語に示されている大和魂が厳存している。悪と嘘を許さない強固な武士道が貫かれている。

そして今日の自衛隊指導者は云う。愛国心は、規律ある訓練と団体生活が若者を鍛えている。「俺達は若者を鍛え、育てることが、国防の第一の任務だ」と自負して止まない。 


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