_塚本三郎元民社党委員長小論集_ _当会支部最高顧問、塚本先生世評_
昭和恐慌を救った高橋是清  平成二十三年十一月上旬  塚本三郎

惨烈をきわめた東日本大震災の復興財源として野田政権は、大幅な増税を実施しようとしている。勿論、借金を後世の若者に付け送りすることは避けたいとの弁明である。

併しこれはいかにも下策であり、財務省の言い分そのままだと思う。日本の経済状況を省みれば、絶対にやるべき施策ではない。

一九九〇年代初頭の平成不況以降、リーマン・ブラザーズ破綻などを契機とした、百年に一度の大不況に苦しめられ続けているのが日本経済である。

国際的な金融混乱や、世界不況の影響を受けたとはいえ、日本政府が、かくも延々と不況、停滞を続けて来たのは、わが国政府が、ケインズ的な、マクロ的有効需要管理政策の実施を怠り続けて来たという「人災」によって生じた事態である。

わが国は、マクロ的デフレ・ギャップ(完全雇用・完全操業)に近い創業度と比べれば、GDPで毎年四百兆円が空しく失われていくのである。

だからと言って復興財源の調達を国債の新規増発も、これまた下策である。

国債の市中消化は、民間資金の国庫への吸い上げを意味し、民間での「カネ詰まり」と市中金利の高騰を生じ、経済の不況・停滞を一層悪化させかねない。

今回の大震災でインフラや生産設備が大量に崩壊し、需要もまた大幅に落ち込んでいる。

今日、更に増税によって、それに追い討ちをかければ、わが国の経済は、ほとんど再起不能の大打撃をうけることにならざるを得ないであろう。

今日行なうべき経済政策は、大規模なケインズ主義的、マクロ有効需要政策の断行をすべきである。日本経済を上向きにさせるため、それを可能にするような「打ち出の小槌」とも言うべき、充分に潤沢な「第三の財政財源」を決め手とした「救国の秘策」を至急に策定すべきで、それが「政府紙幣」の発行である。     (丹羽春喜氏の概説)

独立国には、通貨の発行権利が在るからこそ、経済政策が成り立つ。一国に独立した通貨が在ってこそ、市民生活の安定、物価の価格維持も可能である。

今日、ギリシャが大混乱を来している通貨の危機は、こと経済問題に対して、通貨発行権をユーロに一任しており、自国としては如何ともし難い処に根本問題が在る。

日本経済に対して最も大きな影響を及ぼしているのは、アメリカであり、中国である。

アメリカは、三年前のリーマン・ブラザーズの破綻によって大打撃を受け、大不況の危機に面した。とりわけ失業率の増大は、直ちに政治的危機に繋がるから、オバマ政権は、通貨の大増発を行なって、不況を乗り越えようとしている。

増発したドルは日本円に換算して約二百五十兆円とみられる。国際通貨の裏付け無き増発はドル安へと連動し、当時一ドル一一四円の価値が、今日では七〇円台へと低下した。

ドルの保有国は五〇%も、その価値を消失したことになる。

中国も同様のリーマンショックの影響を受けて、「元の通貨」を増発して、失業者の増大を阻止することに懸命である。この国は、公共土木工事、とりわけ高速道路の新設や、高層住宅の建築に総力を挙げて来た。このことによって失業者の増大は、阻止されたに見える。

裏付けなき通貨を増大させた中国は、物価の高騰を招き、これを沈静化させることに苦慮し、結果として物価の高騰を招き、それを抑えることに中国政府は漸く踏み切った。

日本の通商貿易の相手国として、最大の量と金額の多いアメリカ、及び中国の両国が、資産の裏付け無き通貨の増発によって、ドルの暴落を招いたアメリカ。そして同様の中国は、物価の高騰を招いていることは、他山の石とすべきは当然である。

だからといって、日本は、そのあおりを受け、馬鹿正直に通貨の信用維持に血道をあげて来た結果、「空前の円高」を招いている。

勿論、円高はデメリットばかりでは決してない。

既に波乱の世界経済を乗り切りつつある経営者は、円高こそ日本経済の出番であると自負して、対外的に勇断をもって、世界の信用ある企業に対して、ひそかに「投資と買収」に資力を投入しつつあることは心強い。

政府も経済活動の質と量に比べて、資源の少なさは身に染みているから、国家が、先導的に、全世界に向けて、秩序ある資源を入手すべく心掛けるべきである。特に鉱物資源など、今日の日本国家として、経済活動に不可欠の資源を確保する良い機会である。

「政府紙幣」発行

日本は、アメリカや、中国と全く異なった立場に立たされている。即ち円の高騰である。ドル安は、円高でもある。国際通貨ドルの取引に円を売買することは、アメリカや他の国々も快しとはしない。そのことを念頭に置きつつ、日本は自国の国力を増大すること、それは不況克服の政策実現の為に、「政府紙幣」を新しく発行することである。

東日本大震災復興、不況克服とデフレ・スパイラル抑止、アジアの平和と秩序維持の為の防衛力の整備等々、日本政府として差し迫った、為すべき事業が口を開けて待っている。

資産の裏付け無き、通貨の増発は、その価値が低下することは経済の常識である。

日本の円高、ドル安は、現在の経済状態を直視すれば、幸か不幸か「神か仏の為せるワザ」に見えて仕方がない。日本国家には、目下、「政府紙幣」の発行に出番を待っている。直ちに五十兆円を発行したならば、円の価値がどれ程低下するのか。その資金を先ず東日本の復興中心に充てたらどうか。

それとは全く別に、また五十兆円をデフレ克服と、失業者抑止の公共事業、とりわけ道路、鉄道(新幹線)、リニアモーター(東京大阪間)、或いは共同溝の新設などに、活用し、合わせて百兆円を出せば、円はどうなるのか。一ドル百円に戻るだろうか。

国際情勢は、無防備の日本に危機を及ぼしている。東シナ海や南シナ海、また北方領土、そして日本海も、日本の無防備がアジアの危機を招いている。

この際、年々削減して来た、陸、海、空の防衛力を思い切って整備強化すべきである。

それにもまた、相当の資金を活用したら如何か。

その上、無条件に、国債の償還期限が到来し、返済すべき借金が、年々約三十兆円余、政府に迫っている。これ等の資金等を、堂々と賄うことになれば、合わせて少なくとも二百兆円の「政府紙幣」の活用が待っている。

百年に一度とも云われる大災害、及び急迫した国際的危機である。円高急襲の危機こそ、それを是正するための「政府紙幣」の発行は、丹羽氏の言う打ち出の小槌であろう。

このことによって一ドルが百円を超えて百二十円にまで迫ったら、止まって考え直そう。

 昭和六年、当時の大不況時を省みる。浜口内閣は不況対策を強化せざるを得なくなった。

 赤字公債による失業対策。加えて満州事変がおこって、政府の事変不拡大方針にもかかわらず、拡大を余儀なくされ、金解禁を中心として来た政府の健全財政は一挙に崩れた。

 第二次若槻内閣が昭和六年十二月につぶれ、犬養政友会内閣が成立するにおよんで、またも蔵相の印綬を帯びたのが高橋是清だった。高橋蔵相は、岡田内閣で二・二六事件に倒されるまで四年余の間、日本の財政経済政策の総元締めをつとめた。

 昭和六年十二月、就任すると、即日金輸出再禁止をおこない、金本位制を離脱した。

 高橋は金本位制を離脱したのち、積極的に「恐慌対策」に乗り出した。

 何よりも、日本の為替相場を意識的に低下させ、円安を利用して輸出の促進をはかった。一種の平価切下げによる、対外ダンピング政策をとった。

それだけではない。更に国内では、積極的に財政を膨張させていく方針をとった。

 大いに財政の膨張をはかり、それによって積極的に購買力の創出をこころみた。

 そのとき、まず優先権を与えたのは軍事費であった。――しかし、この厖大な軍事費は、軍人をうるおしただけではなく、重化学工業資本をも大いにうるおした。

 これとならんで、政府は土木事業を拡大して失業救済につとめた。

 高橋財政の特長は、この膨張財政の主要部分を、「赤字公債」でまかなった点にある。

 不況がなお深刻なのであるから、税金をふやすことはなるべく避けるべきだという考え方にたって、公債の発行をつぎつぎと行なった。

 しかも高橋は、この公債を、直接市中に売り出して、市中の資金を吸収することをできるだけ避けた。それをすると金融が逼迫し、金利が高くなるが、それは景気回復の障害となると考えたからである。

 すなわち、まず政府は公債を日銀に引き受けさせる。そうすると、日銀の政府預金がそれだけ増加するから、政府はそれを引き当てに小切手を切って、民間から物資を買い上げたり、賃金・俸給を支払ったりする。――これ即ち「政府紙幣」の発行そのものである。

 このことは、失業者の増大によって、労賃の上昇が相対的に抑えられていたことが、有効に利用された。かくして、世界不況を日本が先んじて回復せしめた。

 与えられた条件のもとでは、誰がやるにしても、これ以外にやりようがなかった。

 このやりかたは、後に、アメリカのニューディールとは多少異なるが、良く似ており、ドイツのナチスも同様のことを行なった。

 高橋蔵相が当時、ケインズ理論を知っていたとは思えない。しかし、高橋は日本経済の現実を見る目は、すでに、ケインズの経済理論の域に達していたとも云い得る。

 今日の日本社会は、まさに高橋が直面した、世界恐慌の現実(八十年前)と、そっくりである。ケインズ理論に先んじて断行した、高橋の鋭敏な手腕を学ぶ時である。

 高橋是清の悲劇は、一つの落とし穴が待っていた。それは事実上、軍部の軍備拡張の要求に対して、障壁を外す意味をもち、軍事費が際限もなく膨張していくことを、止め得なくなった。それを止め得るのは膨張させた高橋の決断を待つのみであった。

 昭和十年一月、再度登場を余儀なくされた高橋は、景気もやや回復したことであるからと云って、軍部の要求を抑え耳を貸さなかった。

国防の危機を招いている「君側の奸」高橋に対する軍の攻撃は日増しに強くなった。その結果、二・二六事件(昭和十一年)の兇弾が八十二歳の蔵相を葬り去った。

日本の昭和恐慌を切り抜けた高橋は、世界的経済学者ケインズの理論に先んじた政策をもって、日本経済を再建した。しかし、彼の成功が、やがて仇となり、彼が育て上げた軍の刃によって倒れたのは、彼にとっては残念だが本望であったかもしれない。


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