_塚本三郎元民社党委員長小論集_ _当会支部最高顧問、塚本先生世評_
混乱をいつまで続けるのか   平成二十二年二月下旬    塚本三郎

 昨年夏の衆議院選挙で、自民党政権に対して国民はお灸を据えた。

 だが結果は、お灸どころか、火焙りの刑に処して、自民党は、手足を大ヤケドして。健全な野党として、手も足も出せない姿になってしまった。

 自民党政権が、健全な保守としての、「信念と努力」を欠き、只々、政権に恋々とする、権力亡者である、としか見られなかったから致し方がなかった。その姿に愛想をつかした有権者は、「政権交代」のマスコミの大合唱の中で、民主党に政治権力を与えた。

 「民主党が勝ったのではなく、自民党が負けたのだ」。敵失によって、巨大な権力が民主党に転がり込んだまでだ。日本政治の悲劇がここに露見した。勝ち取った権力ではない。転がり込んで来た巨大な権力を、大切に育て、活用する経験を持たない民主党は、勢い込んでは居ても途方に暮れている。

 敗戦直後に占領軍が押し付け、与えてくれた民主主義の扱いそのものと良く似ている。

 多数を得た民主党がともすれば独善となり、自由が放縦となり、権利が乱用となり、平和が怠惰と化しつつ在る姿は、政治権力の本質を究めず、与えられた結果を、当然と勘違いして居るからではないか。

 言い難い話であるが、選挙結果は民主党に期待して、「政権交代」を為したのとは違い、自民党へのお灸を据えた結果が、反射的に民主党に片寄ったのではないか。

 寛大に評すれば、一度は民主党に政権を渡してみようという「試験的に」ではないか。

 鳩山新政権発足当初は、「政権交代」の実を挙げ、小沢幹事長の敏腕と鳩山由紀夫総理の、柔らかいお坊ちゃん風が、国民に期待を大きく抱かせ、八〇%近い支持率で出発した。

 しかし、日と共に、政権トップの両名の化けの皮が剥がれ、徐々に支持率を下げ、半年を経ずして、支持しない率が、支持を上回ってしまった。

 とり分け、鳩山由紀夫氏が総理大臣としての資質に欠けると云うよりも。限りなく軽々とした発言と、訂正の繰り返しに国民はいらいらしている。

ペーパードライバー首相

 小沢・鳩山両氏の師匠、竹下登元総理は云う、総理大臣の任に就くには、先ず、大蔵大臣を務め、国家の財産と納税の実体を知り、経済力を把握すべきだ。その上、出来れば、外務大臣を務めて、日本国家が、どんな位置に在るのか、周辺国との、外交と防衛についての実体を充分に把握しなければ国家の運営を誤ると。

 その点で鳩山総理は「ペーパードライバー」だと酷評されている。運転免許証を手にしたが、未だ軽自動車も、小型車も未熟だ、それを、「いきなりダンプカーを運転して、狭い道を猛スピードで走っている」ようなもんだと、某評論家は皮肉に云っている。

 鳩山政権のマニフェストの一つは官僚政治の打破である。それは正しい。だが官僚を邪魔者扱いして良いものか。官僚はその道一筋に生き抜いた行政のプロである。経験も歴史も、まして、省庁内の人事も知り尽くしている。その知識と経験を学ばず、民主党議員の一部が権力のみを振り回す姿は、サルマネに見える。

 高級官僚の天下りによる国費のムダ遣いは目に余る。それを改めるべくムダを省く手法は国民の眼を引いた。だがその「事業仕分け」が、単なる人民裁判に終わりつつ在る。

 官僚行政の効率化は、他国と比べて褒められるべきである。それだけに、省在って国家なしの縦割りの害もまた露出しており、国家全体として総合的判断の障壁となって来た。

 まして定年後の官僚の天下り先の生きる道として、公益法人の公社、公団、事業団等を自分達で創って、国家の本予算以上の国費をタレ流して来たことは是正されて当然である。

 酷評と承知しつつ述べるが、時流に乗った新人議員を、○○チルドレンと評されているが如く、単に選挙に強い、有権者向きの候補者が沢山当選できた。その人達は、各委員会に所属するから、じっくりと、まず省庁の優秀な官僚に、行政の実体を学ぶ必要がある

 行政の実体を知らずして、立法が出来るというのは自惚れである。

 行政の長所と欠点の歴史を学ぶ処から出発するのが国会議員の任務である。

 高級官僚何するものぞ、と自負心に燃えて、予算委員会や、衆議院本会議に臨んだ、かつての私も、最初は、じっくりと担当の行政官僚に、行政の実体を学んだものである。

秘書の罪は国会議員の責任

 鳩山総理の秘書二名、小沢幹事長の秘書三名が、政治資金規制の法律違反で逮捕され、起訴されて、裁判が進むことになった。総理大臣と、幹事長は、不起訴となった。

民主党トップの二人は、俺達は真っ白だと云わぬばかりの居座った態度である。

しかし、日本国民の常識からみれば、余りにも白々しい。彼等五名の被告人は、自分が犯した犯罪ではあるが、元々は、自分が仕えた、大先生の為の偽善であり、疑惑ではないか。犯罪の原罪は秘書自身のものではない。「秘書のやったことは議員の責任。バッジを外せ」との言い出しっぺは、ほかならぬ鳩山由紀夫総理その人だ。

 総理大臣と与党幹事長は、一国にとって最高の「倫理と道徳の実践者」でなければならないはずだ。自分が直接に犯さなくとも、自分の為に秘書がやりすぎたとしても、先生たる者は、秘書の起訴によって、道義的に、政治的に、国民の納得のゆく、日本人らしい態度を示すべきである。自分で吐いた名言は、自らの頭上を覆っている。

 とりわけ普通の政治資金規正法違反ではない。疑われているのは、総理の約十二億円の違反、幹事長の二十数億円の違反は、余りにも巨額で、日本人の常識に全くない。

母と子の関係、国会議員と秘書との関係で起きた犯罪となれば、物的証拠は、殆ど見付けられない。だから法律には全く違反していない、不正の金ではないと言い切っている。

物的証拠を捜し得なかったことで、検察当局は口惜しがっているやに報道されている。だが、日本国民の社会常識からすれば、物的証拠以上に「状況証拠」が歴然としている。客観的には「共謀による共同正犯」ではないか、とみるのが常識である。

司法権の独立とは

 日本列島は日本人だけの所有物ではない(鳩山総理)

 政治の文化大革命が始まった(千谷由人大臣)

 憲法には、三権分立の規定はない(菅直人副総理)

こんな言葉が飛び出す、軽すぎる発言は、「日本国憲法の不備」に根本的な誤りが在るとしても、自民党政権でおきた発言ならば、直ちに党内からブーイングが出て、辞任を余儀なくされたものであった。自民党にとって代った新政権は、国民の考えでは民主党がよもや、それ以上に汚れた政治家、世間常識に疎い不用心な軽率者が居るとは予想しなかった。

 憲法第四十一条に、国会は、国権の最高の機関であって、国の唯一の立法機関である。

 憲法第六十五条に、行政権は内閣に属する。

 憲法第七十六条に、すべて司法権は最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。

以上のように明確に憲法に記してある。それをまともに読まない、大臣が居て良いものか。

司法は中立であれ

 今回逮捕、起訴された五人の被疑者に対して、民主党議員の中から捜査に対する不満と、検察に対して非難の声が高まっている。鳩山総理も、国策捜査ではないか、との問題発言を行って、自民党代表に国会で追及され、軽率な発言だったと陳謝した(二月十二日)。

またその逆に、直接に事情を聴取した担当東京地検の捜査官からは、上層部の態度への弱腰だったとの非難報道が眼に付く。

 小沢氏の刑事処分について、起訴出来なければ、この捜査は何だったんだと批判される。起訴したら今度は、検察は日本を潰すのかと批判される、との迷いが検察にはあった。

担当の大鶴検事は、「僕が起訴状を書けるなら、絶対起訴していた。それだけの証拠は揃っている」と小沢氏に対する不起訴に対して、口惜しがった声がマスコミに出ている。

地検特捜部の佐久間部長は、不起訴について「小沢氏は嫌疑不十分。現時点での処理」と発言した。それだけで、潔白とは一言も口にしていない。疑惑が尾を引く原因である。

検察上層部も「限りなく心証は真っ黒」と言っている。内閣総理大臣は、日本国家最高権力者である。従って内閣と独立している司法権、即ち裁判所に事件を移すか(起訴)、否かは、内閣の最高検察庁にある。その責任者が検事総長である。

鳩山総理の軽すぎる発言が、結果的に、意図的な軽はずみの圧力となっていないのか。

司法権の独立が叫ばれているが、実際には、立法の地位に在り、行政の指導的立場を自負する国会議員が、その権力在るがゆえの、横車を押すこと前述の如くである。

検察は厳正な立場に立って、事件を裁判所へ起訴することは当然である。しかしその前に検察当局が、政治権力の行動に、配慮せざるを得ないことも無視出来ない。

司法権の独立と大津事件

 明治二十四年五月、来日中のロシアのニコライ皇太子が、大津の町で、警備の巡査、津田三蔵に襲撃され負傷した。皇太子は、シベリア鉄道起工式出席の為、海路香港を経て日本に来て、琵琶湖観光を楽しんだ帰り道の事件であった。――ロシアが、モスクワから極東の日本へ通ずる鉄道の起工式を行なうのは、日本侵略のためであり、皇太子は、その下見に来たのだと、英国人が日本人を煽動したことが原因とみられる。

 日本国刑法では、他国の皇族への殺害は、死刑の適用ができても、殺人未遂にはできない。さればとて、それをしなければ、日本とロシアとは危険な関係となり、戦争を招く心配ありと日本政府は恐れた。ニコライ皇太子は、皇帝となられるお方であるから、天皇が特別重要国賓としてお招きしたことを勘案して、ロシア皇帝と国民を満足させるには、犯人を厳罰に処する以外にないと、政治上の理由を述べ、政府は大審院長に圧力をかけた。

 犯人津田三蔵の処置について、日本は憲法制定(明治二十二年)の直後のこととて、開国以来の不平等条約の撤廃、関税の是正が最大の外交案件であり、その為には、法治国家として、制定した「法律の厳守」が、絶対条件であった。

 西郷従道内相は、大審院長・児島惟謙に対して、死刑を要求したが、児島は司法権の独立をかけて、無期徒刑の判決を一歩も譲らなかった。政治的条件で法を歪める訳には参らない。との厳然たる態度である。政界からは次々と「国在っての法律だ」、戦争になってもよいのかとの圧力が加えられた。だが最後まで児島は一歩も譲らなかった。