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「タヌキ」は偉大なり

 タヌキ親父といえば、日本人の多くは「徳川家康」を思い浮かべる。
「狐と狸の化かし合い」という言葉があるように、狡猾な人を指す。個人的には、その意味合いからすれば、狸よりも狐の方がイメージに合う気がするが、男はタヌキ、女はキツネと使い分けると、何となく合致する。ただ、徳川家康の容姿からすれば、キツネ親父では似合わない。また、「狐憑き」という言葉があるように、稲荷神社で構える狐の方が、畏怖があり、より霊的なものに使い分けられたのだろうか。

三方が原で武田軍に敗れたときに、若気の至りで突っ走った自分を戒めて描かせたという有名な徳川家康の肖像画。
家康は、生涯で敗れたのはこの一戦のみだ。
 小生が子供の頃、NHK大河ドラマがまだ、2作目くらいだったと思うが「太閤記」が放送された。そのせいもあってか、三英傑の中では、秀吉の人気が突出し、徳川家康は全く人気がなかった。この頃は、プロレスで力道山が、悪役外人レスラーを「空手チョップ」でやっつけることに大人が熱狂した時代。正義は常に正義であり、悪は常に悪という単純な価値観の時代でもあった。
 しかし、時代と共に価値観は多様化し、徳川家康および、タヌキ親父の評価も変わってきている。
 政界を揺るがした「東京佐川急便事件」を記憶している人も多いと思う。佐川急便は、創業者の故佐川清会長が、全国の運送会社を業務提携の名の下で支配下に置き、拡大してきた。東京佐川急便の故渡辺広康社長も自分で築いた運送会社を業務提携という名でとられた側の一人である。
 そこで政界や裏社会での繋がりを強化し、佐川会長を超えようとした。そのとき、渡辺社長は、腹の中で「アンタ(佐川会長)は、織田信長だ。今は、いい気になっているが、いずれ、私が上に立つ。私は徳川家康になる。」と誓ったとか。結果は、闇献金・不正融資で逮捕となったが、佐川会長の仕掛けた罠ともいわれる。
好例ではないが、徳川家康を拠所とした例だ。目的を達成する知恵は、徳川家康であり、タヌキ親父であることが、必要なのだ。台湾の李登輝元総統も国民党という独裁体制の中で、家康のごとき忍耐強さで、民主化を成し遂げた。



清第2代皇帝ホンタイジ。
朝鮮を明から断ち切らせ、清へ冊封させた。
 そのタヌキ親父の代名詞、徳川家康が、元和2年(1616年)“タヌキ”の成果を実らせ、生涯を終えた。享年75歳、タヌキ親父というより“タヌキ爺”だった。
 その年、海を隔てた満州では、女真を統一したヌルハチが、後金を建国。後の清朝初代皇帝が誕生した。個人的にヌルハチは、どこか織田信長と通じる印象がある。そして、その子供、ホンタイジとドルゴンの兄弟は、忍耐の家康とは、ニュアンスは違うが、戦略的に「タヌキ」ぶって大清帝国をつくったといえるのではないだろうか。
 繁栄は、永遠には続かない。長年の繁栄は、皇帝に堕落を生じさせ、滅亡へ向かう。
 明の万暦帝は、まさにそれがあてはまる皇帝だったようだ。
 万暦帝のとき、経済的な絶好調から、豊臣秀吉の朝鮮出兵などが起き、ヌルハチにとって天の助けか、明が、そこまで構ってられないうちに勢力を伸ばした。

明は、栄枯盛衰をこの万暦帝で経験している。 しかし、明には袁崇煥という、優れた将軍がいた。明も秀吉との戦争経験から、近代化をしており、破竹の勢いで迫るヌルハチの女真軍を大砲で迎え撃ち、敗北させた。この数日後、ヌルハチは死亡した。
 女真軍に立ちはだかる明の将軍、袁崇煥の存在に、ヌルハチの第8子、2代目皇帝ホンタイジは、明の宦官を買収し、袁崇煥が謀反を起こす噂を流した。
 無能のトップを持つ国の悲劇か、その噂に反応した万暦帝は、よりによって、強大となった女真=満州軍から明を守っていた将軍、袁崇煥を処刑してしまった。

摂生ドルゴン。兄が皇帝、その後、甥が皇帝であることから親王になる。
実質的に清による中華支配を実現した人物。
 これで、満州軍には、怖いものが居なくなったのだが、明を滅亡させたのは、農民反乱軍の李自成だった。 李自成は、明朝を滅びした後「順」を建国し、皇帝を名乗った。そこで、清の最前線で対峙していた明の軍人、呉三圭が、主の敵を討つために、敵であった、ホンタイジの異母弟、ヌルハチの第14子、ドルゴンに援軍を求めた。
ドルゴンはそれに応じ、李自成軍を打ち破り、北京に入るや、明朝最後の皇帝、崇禎帝を手厚く弔った。順王朝は40日間の短命に終わり、「明を滅ぼした、賊軍を殲滅し、敵討ちをした」という名目で、清は、ちゃっかりと、シナ大陸全土を支配することになった。
 話を戻すが、戦国の世に終止符を打った家康は、大陸を攻めた秀吉とは逆に、ヌルハチ率いる女真の軍事行動を警戒した。江戸時代となってから女真との衝突はなかったが、278年後の明治になってから、清と合間見え、間もなく、清は滅亡した。


江戸時代=徳川時代は、清より少し早く1603年に始まり、265年を経た1868年に明治となった。清王朝は、1636年に建国し、1912年に滅亡した。その間276年(内、中国支配は268年)。ヌルハチの後金から数える清の歴史は、日本でいう、安土桃山時代に江戸時代を足した感じだ。安土桃山が、満州での後金時代、江戸時代が、中国を支配した清朝時代といった印象を受ける。将軍と皇帝なので、一概に比較はできないが、それにしても、徳川家、愛新覚羅(清王朝)氏、共に長期に渡り、政権についていたものだと思う。ご先祖が、タヌキになって努力した恩恵だろうか。


平成23年1月28日 記 
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