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そのとき、歴史が動…かなかった

 1592~98年にかけて秀吉が行った、文禄・慶弔の役(朝鮮出兵)は、戦国の世が終わる直前に日本軍が、海外へ出兵した一大事だが、小説等々、あまり取り上げられることがない。そういうと、贖罪意識云々という意見が、出てきそうだが400年以上も前のことなので、歴史として淡々と考えてみたい。


資料:文禄の役・釜山城攻略(wikipediaより)
 文禄・慶弔の役は、国家間での勝敗は無く、結果として、日本は、明征服を企てた秀吉の死によって出兵の目的がなくなり撤兵し、明と朝鮮は、侵攻に対し防御しきった。秀吉一人に極東地域が振り回され、多大な損耗をしたが、その前後で大きな変化が起こらなかった。
戦が、ひとつの分岐点になる歴史を題材にした小説などは、「そのとき一人の人物の判断が、明暗を分け、歴史が、こう変わった・・・」という展開がある。この戦は、それがない。要するに「そのとき!歴史が動かなかった」わけで、そうなると作家にとって評価は低くなり、扱い難い題材になる。(韓国は、そうでもないようだ)
 しかし、この戦争は、直接的に歴史のターニングポイントにならなかったが、ジワジワとその後に与えた影響は多いのではないだろうか。



豊臣秀吉
【日本】
 豊臣秀吉とは、戦で負けたことのない強大な大名、徳川家康は、諸大名最大の石高ながら、朝鮮派兵に参加していない。理由は、秀吉が家康を遠ざけるため関東赴任を命じたため、文禄・慶長の役では、家康の出陣は九州までであった。「明」征服は、信長の構想からであることから朝鮮出兵も「もし信長が生きていれば」という想定の対象になるが、信長と共に戦国を駆け抜けた三河武士、徳川家康がこの時、もし、朝鮮出兵に参加したなら、それはそれで違う結果になったかもしれない。
この朝鮮出兵により豊臣家の政権基盤が揺らぎ、無傷の家康が、天下を取ることになった。この展開は、やはり歴史は、人知を超えていると思う。
【朝鮮】
 ある意味、勝手にやって来て去った秀吉の遠征軍であったが、戦場となった朝鮮では、日本に対する遺恨と唐辛子が残った。 韓国料理の唐辛子文化がここからはじまった。遺恨については、朝鮮はひとつの国家ではあるが、明の属国でもあり、国内では両班と呼ばれる支配層の苛烈な取立てなど、国民感情は、内政的に「恨」を培養するところがある。そこに秀吉による侵攻があり、その戦禍が、更に国力を疲弊させ、治安は悪化する。
また、建前は、秀吉遠征軍の朝鮮侵攻を明が阻止したことになり、中国外交における属国化が更に進んだ。女真を野蛮人として嫌った朝鮮であるが、明滅亡後、(間に順があるが)女真が建国した清に対して属国となったというか、ならざるを得なかった。日清戦争直後の朝鮮の状態は、この従属関係にも起因する。「これも全部、秀吉が(日本が)悪い!(良くはないだろうけど)」となったのだろうか。



統一女真族の長、清朝初代皇帝ヌルハチ
【明】
 さて、秀吉が明征服を目指したものの、秀吉の死去により、戦争継続はならず、自国領内まで侵攻されなかった明ではあるが、同時期に三つの戦争が起きた。これを「万暦の三征」と呼び、秀吉遠征軍との戦いは、「朝鮮援兵」とされる。この三つの戦争の内、抜きん出て戦費が課さんだのが、「朝鮮援兵」であり、もうひとつの「楊応龍の乱」は、これに便乗し、反乱を起こしたものだ。
 かように朝鮮出兵は、明財政に大打撃を与えたが、更なる危機を誘発したのは、満州・遼東半島に配備した兵力を対秀吉軍に向け、朝鮮に回したことにより、女真(満州)族の長ヌルハチの強大化に機会を与え、後に女真から攻撃を受けるようになる。丁度、蒋介石が毛沢東を追い詰めきれず、共産党を強大化する機会を与えたのと似る。
 結果的には、ヌルハチを間接的に助けたのが、秀吉の朝鮮出兵であった。そのとき、歴史は動かなかったようにみえたが、その後の中国史に大きく影響を与えたのは確かである。

 なお、ヌルハチが建国した、後金=清は、その後、子供達により、シナ周辺一帯を支配下に置き、シナを支配したものとして唯一台湾を領有し、大清帝国を築いた。その清が、支配した地域を領土と主張する中華人民共和国により、今日、南モンゴルやウイグル、チベットの民族が弾圧され、台湾は併呑の脅威に晒されている。
歴史ロマンというが、その系譜上にある現代では、そうは言っていられない。


平成23年1月26日 記 
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