樋泉克夫教授コラム

【知道中国 915】                       一三・六・初三
 
 ――「喧噪と臭気との他弁別し難い様な人の波だ」(小林の3)

 「杭州」「満州の印象」他(小林秀雄『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 岳王廟、つまり岳飛廟を後に、小林は周囲を散策する。
 「このお寺は、岳王廟の横を山に這入った処にあるが、この辺りの山道は実にいい。その日も朝から爆音が聞え、機銃も響いて来るのだが、四辺は凡そのどかに静まり返っている」。「大気は遥かに澄み、光は強い感じで、寺の土壁は橙色や柿色に塗られている」。だが「暫く登ると土嚢があり、哨兵が立っていた」。「又ぶらぶら行く。鶯の声がしきりにする。竹林はなまめかしい様に青い」。そこも戦場だった。

 別の寺に立ち寄ると木札がぶら下がっていた。「人生一世、花開一時、諸君玩賞、幸勿攀折。と書いてある。文句に実質が伴わない事は、何も支那には限るまいが、慣れない故かどうも支那の字は大袈裟に映る」と。人生は一回こっきりだ。花も一回しか咲かない。さあ楽しもうじゃないか。だが、木に攀じ登るなかれ、花を手折るなかれ――思わず苦笑いしたことだろう。

 さらに進んで「最澄、空海、或は道元、そういう人々が修行したという寺も見た」ものの、「真偽のほどは解らないが、そんな奥床しさはどこにも見当たらないのは確かだ」。「どれもこれも構えだけは堂々とした安普請であ」り、「日本の古寺を見慣れた眼には何の美しさも感じられない」。たとえば「仏像なども、図体ばかり無闇に大きく、驚くほどの金ピカだが」、ホンモノの金ではない。「あれにみんな本金を塗っては大へんな費えらしく、妙に厭な色をしてテラテラしている。顔も円満具足という様なものは一つもなく、ことに、四天王と言った様なものの、大仏ほどもあるのが、極彩色で琵琶の様な楽器を抱え、生々しい人肌で、唇は赤く、ニヤリとしている様なのは、ぞっとするほどの淫猥さだ」った。

 小林の眼に映った仏像の姿は、なにやら海洋大国を目指すと嘯く中国海軍期待の最新鋭空母の遼寧に似てはいまいか。「どれもこれも構えだけは堂々とした安普請」で、「図体ばかり無闇に大きく、驚くほどの金ピカだ」。もっとも遼寧は仏像とは違って「ぞっとするほどの淫猥さ」ということもないだろうが、ともかくも鉄クズに近い張りボテと評する声すらある。そういえば、その昔、毛沢東は「アメリカ帝国主義は張子の虎」と嘯いていたことがあるが、遼寧も張子の虎ということだろうか。

 仏像と最新鋭空母を同日に論ずることはできはしないだろうが、確かに中国、いや香港だって台湾だって、東南アジアなどのチャイナタウンだって、中国仏教の寺院で目にする仏像は例外なく「妙に厭な色をしてテラテラしている。顔も円満具足という様なものは一つもなく」、「生々しい人肌で、唇は赤く、ニヤリとしている様なのは、ぞっとするほどの淫猥さ」ではある。こんな仏像に対したら信仰心なんぞ消し飛んでしまうと日本人としての素朴な感情を抱くものだが、いやいや彼らにとっては「ぞっとするほどの淫猥さ」がいいのかも知れない。そう考えると、「ぞっとするほどの淫猥さ」を持つ仏像なんぞは、やはり敬(軽?)して遠避けたいものだ。

 小林は仏像の次に台座に疑問を持った。

 「仏像の台座なども、遠目には、恐ろしく丹念な彫刻が施されているように見えるが、仔細に見れば決してそうではない」。「全くの誤魔化しだ」。「見掛倒しというのは、何かの拍子にそうと解るものだとすれば、こう手際が悪くては、見掛け倒しと形容するのも不適当に思われる」と、小林は酷評、いや真っ当な評価を下してゆく。

 尖閣問題を持ち出すまでもなく、彼らの主張は「遠目には、恐ろしく丹念」に思えるが、「全くの誤魔化し」、「見掛倒し」に過ぎない。これぞ彼らの伝統手法・・・だよな。《QED》



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