樋泉克夫教授コラム

【知道中国 907】                      一三・五・仲八

 ――「営々と利に敏く立ち廻り・・・」(市川の上)

 「紫禁城と天壇」他(市川三喜・晴子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 日本における英語学の祖とされる市川三喜(明治19=1886年~昭和45=1970年)は、北平と呼ばれた頃の北京を旅している。満州事変が勃発した昭和6(1931)年の春だった。

 「北平の王宮、紫禁城ほどに、その壮大な美観を移しだそうとする、真に筆の及ばなさにガッカリさせられる所は世界中他にない」と驚き、「正に中華の国の中心、天子の御座はこれならではと感服させられる」と感激する。翌朝早く、「千二百年代金朝元朝頃からの天文台である」「東面城壁上の観象台を見に行」った。

 そこで「私にとってはこの城壁の上からの眺めが一入面白かった」そうだ。それというのも、城壁を挟んで「一方は甍が波打ち、一杯に人家の詰まった城内である。それに比べて城外は全然、荒涼たる原野畑地で、いかにも馬賊というものが、岸打つ波の様にこの城壁の外面の根まで寄せて、打つ入る隙もやと荒れる日が思いやられ、盗賊を白波とは、こうした所にふさわしい名だなと想」ったからである。

 城壁から降り、朝の北京を散策する。
 「車屋などが起きてゴシゴシと歯を磨きながら立っている。はばかり方面の事のやりっぱなしなくせに、歯を大切にするのが可笑しいと見て通ると・・・泡だらけの唇を弛ませてニッコリ頂く」。昨日、この男の引く車に乗ったが仕事の途中で「『今日はもう九十銭稼いだ。後半日遊ぶには十分な金だから』と云いながら此男は懐から大福餅程の金色時計をひっぱりだして嬉しそうに眺め、見せびらかし」、市川を置いたまま「悠然と帰って行った」しまったのだ。

 そこで市川は、「営々と利に敏く立ち廻り、又力を惜しまずして働く一面には、明日を思わず、又昔なまじ多少の金有るがために難癖つけて取り上げるべくひどい目に会わされつけた民の、今日一日に満足すれば足れりとした態度の有るを知った」。「そして私は悠揚迫まらぬ、神経の飽くまで太い人々の間に立って、色の事を考えた。今此所で此人達の無智を救うべく、教育機関を作ろうと云う相談を受けたら純粋に喜べるかしらん。智慧の木の実と云う刺激物で神経を爛らしていない此民族は、日本人、イタリー人、ラテン系の人々と、順々に神経衰弱と気違いになり行き、暫くは踏み止るであろうイギリス人、デンマーク人もこれに続いた日にも、なお悠然と大地に野糞していそうな頼もしさを感じる」というのだ。(文中の「色の事」は「色々の事」?)

 「気違い」やら「野糞」やら、江戸の大書家の市川米庵に繋がる名門出身とは思えない“粗野”なことばを書き連ねる市川だが、「北平で新教育によって名高い孔徳学校を参観」し、「日本に対しては国恥地図が小学四年の室にかけてある」のを見て、「阿片戦争やなんかはおかまい無しの、日本を目標としたものだ。よき支那人を作る為には、其自尊心養成に必要なら、国恥地図も是非無いとしても、そんなら各国からうけた恥を大小の順に並べるがいい。さしあたって突かかる目標なる日本に対しての反感を養うべく琉球までを、奪われた、此恨不倶戴天なんて焚きつける事は、教育をして人間を作る機関から切り離し、国家の道具製造場と化す苦々しい態度だと思う」のであった。

 市川が学校は「国家の道具製造場と化」し、「さしあたって突かかる目標なる日本に対しての反感を養うべく琉球までを、奪われた、此恨不倶戴天なんて焚きつける」と憤慨してから半年ほど後、満州事変が勃発する。それしても日本を「さしあたって突かかる目標」として「此恨不倶戴天なんて焚きつける」「苦々しい態度」は・・・昔も今も同じだ。《QED》


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