樋泉克夫教授コラム

【知道中国 900】                      一三・五・初四

 ――「いかになんでも不愉快になって了う」(里見の上)

 『満支一見』(里見弴 春陽堂 昭和8年)

 大正12年に軽井沢の別荘で波多野秋子と情死した有島武郎と画家の有島生馬を兄に持ち、『カインの末裔』や『多情仏心』などを著した里見弴(明治21=1888年~昭和58=1983年)は、どうにも食えないオヤジらしい。もっとも、その食えない辺りが中国に対するには丁度、釣り合いがとれているようにも思えるのだが。

 「一遍支那へいってみよう」と思っていた里見のところに「満鉄からの招聘の話が来た」。そこで志賀直哉、佐藤春夫と打ち揃って「満支一見」の旅に出たのは昭和4(1929)年の11月の初めのことだった。

 ここで里見の旅行中に起こった大きな出来事を拾っておくと、11月には海軍軍縮会議参加のため若槻礼次郎全権がロンドンに出発し、翌(5)年1月に金解禁が実施されている。ついでにいうなら、昭和5年11月には濱口首相が狙撃されている。

 中国では国内混乱はさらに激化し、閻錫山、馮玉祥、李宗仁、何健、鹿鐘麟ら有力軍閥は反蔣介石の声をあげ、湖北省では共産党勢力が蜂起する。昭和5年2月のことだ。目を世界に転ずると、昭和4年10月にはニューヨーク株式市場の大暴落が起こり、やがて世界恐慌へと突入していった。

 このように内外共に疾風怒濤の時代の鳥羽口に立っていたにもかかわらず、里見は泰然自若、いや駘蕩奔放に旅を続けた。なんせ「満鉄からの招聘」である。もちろん一切合財が満鉄の負担らしい。それに対し「こっちの義務は、帰ってから新聞なり雑誌なりで旅行記を発表すること、それの再録権は満鉄が保有すること、――ただそれだけだ」というのだから。

 鎌倉から京都を経て下関へ。玄界灘を越え大連で下船。鉄嶺、長春、ハルピン、奉天などを経巡った後、満州を離れ天津を経て北京へ。北京では主だった名勝旧跡を楽しんだのち、昭和5(1930)年1月30日、下関着。2月1日の朝、「大船駅に家族一同の出迎えをうけ」て帰着となったが、その途上こと、「小郡あたりから細雨が来る。まる四十日ぶりで、なんとも云えず懐かしく、嬉しい。中国筋の山河、満州を見て来た目には、どこからどこまで、綺麗に箒目だった庭先の感じで、いっそ小憎らしくなるくらいだ」と、改めて五体いっぱいに「綺麗な日本」を感じている。旅先で、よほど汚さに閉口したのだろう。

 先ず汽車の中での体験は、「満鉄の汽車から支那のに乗り換えてみて、第一に気のつくことは掃除の不行き届きだ。窓框でも倚褥でも埃だらけ、どんな快晴の日でも、おもての景色が、どんよりと薄曇ってみえるほどの硝子だ。床は食物のからや、手洟と痰のかたで汚れ放題だ。然し、支那旅行に清潔などもって歩いたひには、どこへ行っても心の楽しむ遑はなかろう」。

 不潔さに加え「もう一つ支那の客車の特徴」を挙げて、「帽子掛やなんか、真鍮の金具があちらこちらとれていることだ。それも奪って行く方でもなかなか考えているとみえて、大抵一つおきくらいの割合になっているから、二人分の帽子、外套を、一つの金具にかけることにすれば、別段不自由はない」と記す。盗人にも三分の理、あるいは奪った後のことまで考えての悪行か。1つおきに金具がなくったって「別段不自由はない」というわけだから、これを“中国的合理性”とでもいうべきかも知れない。

 そこで里見の旅行から80数年後の現在を考える。周辺諸国の領土領海侵犯の背景に、彼ら先祖伝来の身勝手で不埒千万な“中国的合理性”が潜んでいるに違いない、と。《QED》


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