樋泉克夫教授コラム

【知道中国 897】                      一三・四・念八
 
 ――「支那人の矛盾に対する無頓着が現れている」(安倍の下々)

 「瞥見の支那」他(安倍能成 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 かくして安倍は、「こんなに考えると支那の高士なんていう連中は、皆盛に豚を食ったように思えて来る。陶淵明だとか竹林の七賢なんかも、きっとそんな人間だろうといいたくなる。豚を食ったか食わないかは暫く措いても、生活力が強くて余裕があることの一の現れが『悠然として南山を看る』境地となる、と考えるのはあながち無理でもあるまい」と。

 確かに日本の伝統的で“正統派”の看板を掲げる漢学者的視点では、やはり「陶淵明や竹林の七賢」は“霞”を喰らって生きていてもらわなければ困るだろう。だいいち、豚の脂身に塗れた「陶淵明や竹林の七賢」なんぞは想像だにできないはずだ。だが旺盛な生活力に加え何だって咀嚼し消化し栄養にしてしまう強靭な胃袋があればこそ、陶淵明のように「悠然として南山を看る」こともできるわけであり、世を拗ねて竹林に遁げ込んで昼の日中から酔眼朦朧と琴でも弾いていられるわけだ。酔狂・風狂を演ずるにも、やはり“鉄の胃袋”は必要不可欠ということか。

 こう考えれば、鳥インフルエンザ如きに周章狼狽する昨今の情況を見せつけられると、中国人もヤワになってしまったものだ。いったい中国人が中国人であることの証明である“鉄の胃袋”は何処にいってしまったんだと、深い疑いをもってしまう。同時に中国人から“人間離れした胃袋”が失われてしまうことに一抹の寂しさを覚える。

 ところで安倍は日本人と比較して、「支那人は日本人よりも遥かに『衆と楽して楽しむ』ことの『独り楽して楽しむ』に優ることを解して居るように思う」としながら、「各個人がお互いに無関心で居てそうして全体の空気を楽しもうという社会的訓練は、西洋人と同じく日本人よりも或は発達して居るのではないか」と考える。どうやら安倍は日本人と中国人の違いを「独り楽して楽しむ」のか、それとも「衆と楽して楽しむ」かに見出したようだ。だが「衆と楽して楽しむ」は一歩進めば付和雷同の責任放棄につながるはずだ。昨秋の反日デモにみられた日系企業焼き討ちなど、まさに「衆と楽して楽しむ」そのものだ。

 安倍が「最後に考えることは、この支那人の旺盛なまでの楽欲と儒教の関係」だった。儒教は日本人が常識としているほどに「禁欲的なストイックな厳粛な道徳教」ではなく、「むしろ実際的な、現実生活に即してそれに秩序と方向とを規定せんとする所の教であり」、であればこそ中国人の間では「無意識的若しくは半意識的な風習として、偽善だとか矛盾だとかいう小うるさい詮議は抜きにして通用して居る」わけだ。

 そこで「更に進んで考えると、支那人は日本人よりも一層複雑であり、ずうずうしく物を気にしない所があり、儒教は儒教、生活は生活ということをちゃんと心得て、その間をよろしく平気でやって居られるといえよう」。一般民衆は種々雑多な民間信仰を持つゆえに、儒教は「此等多数民衆を支配する力を有しないとも考えられよう」と疑問を投げかける。

 かくして安倍は、「支那人の個人としての生活力の強さ、その弾力の豊富は、支那人をして圧えればひっこみ弛めれば膨れしめる。支那人はこの点に於いて無気味な不死身の性を持って居る。けれどもこれは同時に強い力の前にはちぢみ上がり、相手が弱いと見ればむやみにのさばるという厭うべき性質ともなって現れるのであろう。何といっても国土が広く、資源が豊かで、人間の生活力が強い支那の前途は実に我々の前に置かれた興味ある謎でなければならない」とし筆を擱く。

 それから1年が過ぎた昭和4(1929)年10月、安倍はハルピンを散策している。《QED》


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