樋泉克夫教授コラム

【知道中国 891】                     一三・四・仲六
 
 ――「惶惑と戒厳と混乱との中に在る・・・」(与謝野の下続)

 「金州以北の旅」(与謝野晶子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 往路でのこと。奉天の次に立ち寄った四平街で稲作が盛んな様子を目にした与謝野は、「低濕の広い土地が多いのを利用して、この二十余年来、朝鮮の移民の水田経営が盛に行われ、その有利であることを知って、支那人の稲作が勃興している」と綴っている。四平街でも彼らは、その特徴である貪欲さとセコさとを存分に発揮し稲作に乗り出すのだ。

 ハルピンには5日間留まったが、「支那の軍閥に威張られている哈爾賓」と見ているところからして、やはり日本人は劣勢だったということか。

 「今日の行政長官張煥相の露骨な排外思想は隅隅に行亘り、焦点の看板の露西亜文字までが漢字に改まっている」。「大小の百貨店は、猶主として露人の経営に属し、支那商店が其れに続いている。健気に踏み止まっている日本の百貨店も一軒あるが、日本人は此処でも露支両商に挾撃せられて競争に堪えないらしい。

 その理由の一つは、大正七年以来久しく北満市場唯一の信用通貨である日本金円を、近年張長官が軍権と警察権の暴力を以て通用を禁止し、奉天軍閥の資金捻出を目的に濫発を重ねた不換紙幣『哈爾賓大洋』の訓令相場を内外の取引に共生している為めである」とする。昭和3(1928)年の時点で「支那の軍閥に威張られている哈爾賓」だったわけだ。

 ハルピンですら「支那の軍閥に威張られている」のである。ここにも満州国建国に突き進んだ一半の要因があったのではなかろうか。だが一方で、一連の排日の動きを、「支那復興の機運」とも看做す。

 ハルピンの日本領事館で食事に招待され、「近年支那の排外思想が最も抵抗力のない、最も世界の耳目を惹かない此地で、日露両国は勿論、列国の既得権と未来の経済的進出とを蹂躙している時に、この食卓にいられる人達の裏面の苦心と画策とを想像しながら、私は窃に邦人の満蒙経済が露支両国の幸福と矛盾する所のない解決を如何にしたら得られるのかの問題に思い惑うのであった」。そして「南方ばかりでなく、此の北辺の地にまで、青年支那人の教育ある者が自主権の回復に目覚めている。帝国主義的な見方からは恐ろしい事ながら、人道上からは支那人のために慶賀せねばならない。支那軍閥の小さな嬌児である行政長官張煥相の如きをして、その不法な排外行為を敢えてせしめるのは、その背景を為す支那復興の機運である事を思わずにはいられない」と綴り、食事会に同席した数名の日本の武官に対して「私は此の席にいられる武官達が時代の大勢を観て善処して頂きたいと思うのであった」と“注文”をつけるのであった。

 満州における排日・侮日の動きに対する与謝野のような考えは、当時の日本で、どの程度に支持されていたものなのか、いずれにせよ昭和17(1942)年に没した彼女が、満州国の最期も、在満日本人が辿らざるをえなかった道も見届けることはなかったわけだが。

 帰路、張作霖爆死後の混乱した奉天市内に足を運び、「奉天支那街の小三越である吉順糸房の屋上から」市内を展望しているが、この店の「支那店員の接客術の上手な事は日本人の及ばない所がある。日本語の流暢な店員がいるのにも感心した。在留邦人の商店で、各地とも此の程度に正しく鄭寧な支那語の出来る店員は稀である。出先で支那人と支那語とを軽視する風を改めなければ、日支の親善の日貨の普及も心細く思われる」(「日支の親善の」は「日支の親善も」では?)と綴り、また別の場所では「満洲に在住する日本の女子達が支那語を学ぶことに冷淡なのを遺憾に思」ってもいる。

 「北京に行かない以上は早く東京へ帰りたい」と与謝野は、帰宅を急いだ。《QED》


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