樋泉克夫教授コラム

【知道中国 890】                     一三・四・仲四

 ――「惶惑と戒厳と混乱との中に在る・・・」(与謝野の下)

 「金州以北の旅」(与謝野晶子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 与謝野は内蒙古で目にした漢族の生態に驚くと共に、現地の日本人にも言及している。
「(内蒙古では)土地は(内蒙古の)王公の土地ながら、清朝の末期以来漢人が続続と移住し、殊に近年になって激増するので、借地料を徴収して其れ等の漢人に開放した土地の行政権は漢人に及ばず、その権能は支那政府に掌握せられている。即ち漢人の移住している開放地域には支那政府が新たに県治を布き、その地域に接した各省に隷属せしめて、漢人を管轄している。唯だ開放地域に住む蒙古人だけは王公が行政権を行使しているが、近年其等の蒙古人は漢人のために放牧地を失うのと、すべての生存競争に堪えないのとで、次第に奥の未開地へ流落して行く有様である」。

 かくして「蒙古人の土地は遊牧地であるが、清朝以来漢人勢力の侵入に余儀なくされて開放地とした土地は、年年に増大して」いる
ここで時代を一気に現在に下って、この記述の「漢人」を中国人、「支那政府」を共産党政権、「内蒙古」を尖閣・沖縄、「蒙古人」を日本人と読み替えたらどうだろう。やはり日本人は危機感を持つべきだ。だが、やはり考えるべきは、共産党政権誕生以前の「支那政府」が漢人を送り込むことで内蒙古の地に「県治を布き」、行政権を及ぼしていたということだろう。どうやら必ずしも共産党政権ならずとも、中国の政権は他人の土地に人を送り込んで、やがて自らの土地に併呑しかねない、ということだ。

 このように乾いた土地に水が染み込むようにジワジワと内蒙古を蚕食して進む中国人に伍して頑張ってはいるが、「日本人は此等の条件を欠いている上に、支那人のような忍苦の力と勤倹質素の心とがない。また団結力に乏しくて、海外に行ってまで同胞が排擠し、孤立的に利益を獲ようとする。是が満蒙の各地に於いて日本商人が支那商人と競争しえない一つの主要な弱点であると想われる」と記す。

 ここにいう「此等の条件」とは、「支那人の行商は隊を成し」、「物物交換するので現銀を多くもたない」うえに「皆蒙古語に通じ蒙古人の人情風俗に通じている」ことである。漢人は「此等の条件」を持つゆえに「賊難の危険が少く、卻って蒙古人に親しみを持たれる」ことになるというが、やはり「卻って蒙古人に親しみを持たれる」という部分に異論を差し挟みたい。与謝野は「日本人が土地の租借権を持たない事、支那警察が外人の保護に無力な事、信用すべき支那の銀行がない事、従って支那の貨幣制度の乱脈な事、満蒙内地の衛生設備の皆無な事など」を日本商人の弱点のうちの「外的原因」に挙げている。

 だがしかし、と与謝野は続け、「支那人は唯土地の租借権を得ているだけで、其外の困難と危険とを侵して辟易する色なく、年年に発展を示している」としたうえで、「近年あらゆる酷遇を受けながらも、百万以上の朝鮮人が満蒙に流れ込んで、水田の耕作其他の労働に相当の成績を挙げている」ではないか語りながら、「私は日本人の冒険心と勤労精神の弛緩を嘆かずにはいられない」と綴る。

 ところで大通旅館という名前の日本宿がたった一軒しかない内蒙古の洮南でのことだった。同行の2人が「或る裏町に日本の女が一人いると聞いて、・・・慰問使の格で訪ねて行かれたが、女は早くから戸を鎖して居た。叩き起こすようにして女の家に入って暫く話していられると、付近で突然銃声が」起こったので、逃げ帰ってきたという。

 そこで考える。たった1人で内蒙古の「或る裏町に」住んでいた彼女に「冒険心と勤労精神の弛緩」はあったのだろうか。その後は如何なる運命を辿っただろうか、と。それにしても与謝野が蒙古で見た風景は、21世紀初頭の現在にも通じるようにも思える。《QED》


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