樋泉克夫教授コラム

【知道中国 887】                      一三・四・初八 

  ――「威張り散らせば威張り散らすほど利目が多い」

 「曾遊南京」「廈門の印象」等(佐藤春夫『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 佐藤春夫(明治25=1892年~昭和39=1964年)が福建を旅したのは、五・四運動の翌年。上海で共産党が結党された1年前の大正9(1920)年である。

 「子供が毎度誘拐されようが夕方には頻々と追剥がでようがどうも仕方がないというような警察力しかないこの地方」を歩き、娼館と思しき月紅堂で、様々な中国楽器の演奏を聞く。そして「支那音楽というものは実に言語道断に騒々しいものである」と「ドンチャンの囃子に耳を聾」された浜田青陵と同じような感想を漏らすが、真反対の反応を示した。

 「しかも不思議なことにこの騒々しい楽声が、音楽に就いては全く聾者より以上の者である私――今まで音楽によって一度も愉快を感じたとは思えない私から、私の心を説き難い昂揚の状態に導いたことは我ながらに訝しい事であった」とする。そして、「何にせよあの実に騒々しい全く嵐のように、嵐のなかで難破しかかっている船のようにさまざまな音響によってけたたましい合奏音を、三分程も我慢しているうちに私はそれの騒々しさをふと全く忘れてしまった」のである。

 「騒々しい音響のただなかに巧みに縫行しながら歌われる歌妓の細い高い声に聴き入っていると、その肉声はその騒々しい楽器を統御し、それを超越して、その上に平然と築き上げているような或る奇妙な静粛だけが私の心に残って行くのであった。それは例えば難破船のなかに愛児の叫喚を聞く親の心であろうか」と感じた佐藤は、「支那音楽というものは積極的に狡いものだと思う」。なぜなら、それは「人に先ず騒々しさを与えて人の心と耳を掻き擾して置いて、さて人々がそれに慣れてどうかしてそれに堪えようかとする頃に、初めてその音楽の中心である肉声が人の心と耳を優しく宥めるのである」。

 かくて佐藤は支那音楽は聞き手に「限りない紛糾を与えて後にそれを単純に浄化させる」と、「私は一人で考える」に至ったのだ。確かに、これは彼等の行動にも通ずるように思う。

 「優しく宥める」ことは絶対にありえないが、「人に先ず騒々しさを与えて人の心と耳を掻き擾して置いて、さて人々がそれに慣れてそれに堪えようかとする頃に」、「その音楽の中心である肉声が人の心と耳を」動かす。これ、まさにマインドコントロールではないか。

 50年代半ばの反右派闘争、58年からの大躍進、66年からの文革、70年代半ばの批林批孔運動、70年代後半の四人組批判、70年代末に始まった改革・開放という名の挙国一致の金儲け、90年代以降に本格化し現在にも繋がる反日運動――そのすべての動きを始まりから観察し直してみると、確かに先ず「人に先ず騒々しさを与えて人の心と耳を掻き擾して置いて、さて人々がそれに慣れてそれに堪えようかとする頃に」、毛沢東であれ鄧小平であれ、共産党であれ、その「肉声」が中国人民の「心と耳を」動かし、彼らを一定の方向に誘導する。たとえそれが飢餓地獄であれ、血で血を洗う阿鼻叫喚の思想浄化闘争であれ、目も眩むような格差社会であれ、自分で自分の首を締める日系企業襲撃であれ、だ。

 昭和10(1935)年には、友人で文学者の郁達夫と西湖湖畔を訪れた。そこで「(中国)軍人の横行或は庶民の軍人優待を」「苦々しがっていた郁」の行動に驚く。「温雅な郁」が「不意に席を立ち上ると、今まで腰を下していた椅子を両手で振り上げて床や卓子に叩きつけつつ呶鳴り散らし」た後、「こういう風にやらないとこの辺の奴等は客を尊重しないのです。威張り散らせば威張り散らすほど利目が多い。この国は一般に其の風習があるけれどこの地方は特に甚だしい」と、「あっけにとられている僕等に説明し弁解」したという。

 支那音楽の「積極的な狡さ」、「威張り散らす」ことの効用・・・確かにそうだ。《QED》



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