樋泉克夫教授コラム

【知道中国 879】                     一三・三・念三

 ――「私の受くる印象は・・・支那人の淳素な平安な感情である」

 『草画随筆 満鮮と支那』(小杉放庵 交蘭社 昭和9年)

 明治14(1881)年に生まれ昭和39(1964)年に没している洋画家の小杉放庵は主に大正5(1916)年と同13(1924)年の中国旅行での思いを綴っているが、彼が視線の先に捉えようとしているのは、広大無辺と思われる大自然でも栄枯盛衰の歴史ロマンを秘めた文物でも、ましてや激動止まない政治の姿でもなく、専ら大陸に生きる庶民だった。

 先ず泥棒。満鉄の列車が丘陵地にさしかかるとスピードが落ちる。そこで「馬車を用意しておいて、数人或は十数人の徒党で貨車に飛びつき、どしどし貨物を投げ落とす」。車掌だけでは多勢に無勢。被害が重なり頭を悩ました満鉄側は、態勢を整えて彼らを待った。だが「逃げ足の早い奴共、一人も捕らえられなかったが、馬を一頭残して行った」。そこで馬を放して後を追うと、「果して一軒の百姓家に導いた、前々の贓品などもあり証拠十分、専門の泥棒ともいわれぬが、先ず百姓の副業としていたわけでありましょう」。

 次は泥棒対策。「ある炭鉱場で毎晩のように石炭が盗まれるゆえ、張番をして一人捕らえた、よくよく折檻して帰してやったが、また盗まれる」。盗まれる、捕まえる、折檻する、帰す、また盗まれる――この繰り返しが何回も続いた。しかも泥棒は同じ人物。そこで「石炭置場の周囲に垣を作ろうと予算を立て」たが、「どうもこの予算額の利息だけは到底盗まれまい、盗まして置いた方が経済だろうと」いうことになった。

 泥棒を「副業としていたわけ」だからといっても百姓は百姓である。村の廟に芝居が掛かるとなると「手弁当で近在から来た老若が、早くも腰をかけて居る、斯うせねば芝居は見られず、いつ初まるものやら知られぬが、いつ初まるにしても、世間話をしていれば其内に時は立つ、せまくるしく忙しい日本の人の心では、忖度してはいられない」。

 そんな人びとにとって生活範囲は極めて限られている。そこで「此辺の人に日人も西洋人もなく、言葉が分からねば、大てい広東人として置くとの事」となり、だから小杉は「広東人」と見られていた。

 じつは中国は「元来治世少なく乱世多き国柄ゆえ、唐の太祖が天下を取っても、蔣介石が失脚しても、さまで心に留まらず、数十世紀を同じ土地に住み馴れて、宿命のあきらめ根強き生存力、為政者などを頼りに」しない庶民の生活がみられるが、彼らは「名利の争奪に根強い精力を持ち、太平なれば太平の智慧、乱世なれば、乱世の力で、脂こい働きをつづける」。

 やはり中国では「一たび開港場と汽車路から離れると、旧態依然山村水郭、別段進歩もせぬ、目立って退歩もせぬ処の、先年前の生活をしています」。「支那の科学的文明化はホンの開港場と鉄道線路左右だけの部分に留まり、他の多くは、千年二千年のいにしえと、余り異ならぬ状態に在るを思う。/開港場の支那通が、支那の前途についての結論は誤り易い、開港場の支那通が、接触し得る支那は、支那の官匪であり学匪であり売匪であるに過ぎぬ」ものであり、「三度支那の内地に入って、私の受くる印象は、支那人の純素な平安な感情であった」という。

 小杉の感じた「純素な平安な感情」の持ち主が、時に泥棒を副業とし、「宿命のあきらめ根強き生存力、為政者などを頼りに」しないが、「名利の争奪に根強い精力を持ち、太平なれば太平の智慧、乱世なれば、乱世の力で、脂こい働きをつづける」。やはり「せまくるしく忙しい日本の人の心では、忖度してはいられない」という辺りに落ち着くのか。《QED》



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