樋泉克夫教授コラム

【知道中国 876】                     一三・三・仲七
  
 ――「鳴動」・・・「沢山塊まると更に不体裁である」

 「満韓ところどころ」(夏目漱石 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 後藤新平に請われ玄界灘を渡り、懐刀として辣腕を揮い、後藤が去った後に総裁に就き満鉄の基礎を築きあげた中村是公と夏目漱石は、第一高等学校以来の“オレ・オマエの仲”だった。その中村に向かって漱石が「南満鉄道会社って一体何をするんだいと真面目に聞いたら、満鉄の総裁が少し呆れた顔をして、御前も余っ程馬鹿だなあ」と。かくて中村は、「まあ海外に於ける日本人がどんな事をしているか、ちっと見て来るが可い。御前見た様に何も知らないで高慢な顔をしていられては傍が迷惑するから」と、文豪の親友に「満韓ところどころ」を巡る旅を半ば強引に勧めた。

 かくて漱石は明治42(1909)年に鉄嶺丸で大連へ。岸壁に並んでいる中国人が、漱石の目に入る。「其大部分は支那のクーリー」で、「一人見ても汚らしいが、二人寄ると猶見苦しい。斯う沢山塊まると更に不体裁であ」ったそうな。そこで「甲板に上に立って、遠くから此群集を見下しながら、腹の中で、へえー、此奴は妙な所へ着いたねと思」う。

 漱石が目にした「支那のクーリー」は、清末の混乱・荒廃する故郷を捨て、万里の長城を越え、あるいは山東半島から海を渡って、日本が本格開発に動き出した満洲の地、ことに“表玄関”として開発を進める大連にやってきた人々である。日本が押さえた満洲なら、行けば必ず仕事はある。食いっぱぐれはないはずだ。そこで大挙して満洲に押し寄せた。

 漱石は中村の行き届いた差配で、満鉄主導で開発の目覚しい各地を見て回るが、あちこちで偶然ながら高校や大学の同級生たちに出会っている。それほどまでに、当時の日本は官民挙げて人材を満洲開発に振り向けたのであろう。もちろん莫大の資金も。

 満洲の特産品で最重要輸出品の大豆を運ぶクーリーに対し、漱石は「丈夫で、力があって、よく働いて、ただ見物するのでさえ心持が好い」と感想を洩らした後、「其沈黙と、其規則づくな運動と、其忍耐と其精力は殆ど運命の影の如くに見える。実際立って彼等を観察していると、しばらくするうちに妙に考えたくもなる位である」とし、「クーリーは実に見事に働きますね、且非常に静粛だ、と感心する」。すると案内は「とても日本人には真似も出来ません。あれで一日五六銭で食っているんですからね。どうしてああ強いのか全く分かりませんと、左も呆れた様に云」ったという。

 奉天の街頭で「乗客の神経に相応の注意を払わない車夫」に腹を立て、宿舎の風呂に浸かっては「支那の下男」が運び出す「我々の汗や垢」の浮かんだ汚水が「結局どう片付けられるかの処置を想像して見て、少しく恐ろしくなっ」ている。さて漱石は汚水の行方に何を想像したのか。

 ところで「力車はみんな鳴動連が引く」「馬車の大部分も亦鳴動連によって、御せられている様子である。従って何れも鳴動流に汚いもの許りであった」「橋を渡って、鳴動の中を突ききって」「車は鳴動の中を揺ぎだした」という記述少なくないが、どうやら「鳴動」とは漱石自らが目にした中国人を指すらしい。

 1人なら「汚らしい」、2人なら「猶見苦しい」、集団なら「更に不体裁」とは、言いえて妙としかいいようはない。だが現在の日本でこんなことを口にしたら、文豪であろうと“民族差別表現”だと糾弾され、社会的に袋叩きに遭い、抹殺されてしまうに違いない。ここからも20世紀初頭以来の100年余の時の流れの中で、日中両国の立場が逆転してしまったことを改めて思い知る。同時に現在の日本人の異常なまでに過剰な自己規制が中国に対する素朴な感情を“封殺”し、中国の現実を誤解・曲解させてしまう大きな要因だと痛感する。それにしても「鳴動」とは・・・『坊ちゃん』の生みの親ならではの表現だ。《QED》


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