樋泉克夫教授コラム

【知道中国 875】                     一三・三・仲五
  
 ――彼の地にては「人間程廉価のものは此れなく」・・・

 「安東県より奉天・・・」(徳富蘇峰 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 明治・大正・昭和の三代をジャーナリスト・思想家・歴史家・評論家、そして時に政治家として生きた徳富蘇峰(文久3=1863年~昭和32=1957年)は伊東忠太の中国西南辺境調査旅行の1年前に当たる明治39(1906)年の「六月一日午後五時前、新義州より、小蒸気にて鴨緑江を渡」り、安東に足を踏み入れる。

 その後、1ヶ月ほどをかけ奉天(現在の瀋陽)、大連、旅順、営口、山海関、天津、北京を旅したが、中国の人と社会への視線は、佐佐木信綱のノー天気旅行とは大いに違って鋭く、そして醒めていた。

 先ず「安東県にて、二三の支那商店を訪い、種々談話を試み」る。すると日本の「軍政の為に、其の身体、財産の安寧を保持したる」を「彼等が尤も感謝する」。だが衛生やら道路補修・建設など現在でいうところのインフラ整備に彼らは感謝していない。そこで蘇峰は、「固より彼等が本音を吹くや否やは、知らざれども」とことわりながらも、「何れにしても支那の役人を信ずるよりも、日本の役人を信じ候丈は、間違いなきに似たり」と綴る。

 奉天では清朝廷室の宝物蔵の文溯閣を見物し、膨大な古今の貴重な文物に接しながら、その数の多さと保存状態の悪さに閉口し、「総じて支那にては、流石に四億余の人口ある故にや、人間程廉価のものは此れなく」と呆れ果てる一方で、「斯かる宝物庫や何やを見物するにも、役人やら油虫やら、ぞろぞろと左右前後より取り捲き、嘵々、喋々の奇声を発し、且つ名状す可らざる奇臭の包囲攻撃には、閉口中の大閉口にて有之候」と記した。

 安奉鉄道の車窓からの眺めを、「前面には、大いなる巌石の矗立するあり。其の下に小川あり。川堤には、幾株の老柳あり。其の川畔に、一人の村童が、長竿を揮うて、豚や、犬や、驢馬や、山羊や、殆んど許亜(ノア)の方舟の乗客とも思わるる、各種の動物を、一隊として半は川に飲い、半は川原の草に臥さしめつつある光景は、油画以上と存じ候」と記しているところをみると、蘇峰も文人の片鱗をみせ“支那趣味”を満喫しているようだ。

 ところが「南満洲鉄道の最終点たる昌図」の付近にも馬賊が「日夜出没しつつあ」ることを同地の役人から聞き及び、道すがらの情況を思い起こしながら、「左もある可し」と納得する。戦争が終ったとはいえ社会の混乱は収まらず、馬賊の跳梁跋扈が続いていたということだろう。名前は馬賊と恐ろしげだが、元を糺せば喰いっぱぐれの貧窮農民が少なくないのだ。「廉価」な人間が生きるために武器を持って徒党を組み、同じく「廉価」な人間を襲う。馬賊も勢力を伸ばし多くの私兵を抱えれば張作霖のように軍閥となり大将軍へ。敗残の馬賊は元の農民に戻るか、はたまた乞食。「人間程廉価のものは此れな」いのである。

 旅の終わりの北京では、「何れを見ても零落、荒廃の感は免れ不申候。支那人は、不思議なる人種に候。精々念を入れて作り候得共、愈よ作り上げたる後は、丸で無頓着に候。而して其の無頓着さ加減の大胆なる、只管呆れ入るの外無御座候。或る人は、北京の新修道路も、三年後には、依然旧時の荒廃たる可しと、予言致し候。併し小生は、切に其の予言の適中せざらんことを祈り候」と。彼らの新し物好き、移り気の激しさ見抜いている。

 北京散策後、その物情騒然とした情況から清朝崩壊の近いことを推測した。「予は北京の皮相を見たる迄に候得共、何となく北京即今の情態は、此儘にて永遠に持続す可きものにあらざるが如く感じ」、「要するに清国は、目下過渡の期にあ」る。そして「国民的統一をなし、国民精神の発揮と与に、文明諸国共通の生活思想に加入し、茲に一大強国となるを得可き乎。否乎」との「多くの疑問中にて、最も大なる疑問」を呈した後、「之を解釈するの責任は、固より清国人士のうえにある也」と結論づけた。断固として異議ナ~シ。《QED》


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