樋泉克夫教授コラム

【知道中国 829回】             一ニ・十・念一

 ――超巨大な「夜郎自大」国の行く末は・・・

 総書記としての最後の演説において、胡錦濤は今後の方針に海洋強国建設を挙げた。歴史を振り返ってみると、中国の中央政権が海洋国家への大方針を打ち出したのは、明代初期の永楽帝の時代に続いて2回目になるように思う。

 明朝を開いた洪武帝(1328~98)は貧農の生まれで貧民兵士あがり。世界の歴史をみても、これほどの悲惨な人生の末に玉座に就いた皇帝はいないといわれるほどの苦労人。だが、その倅の永楽帝は幼時より前途有望な皇子として帝王教育を受けていた。いうならば「太子党」。父親が抱いていた外国に対する恐れなんぞ微塵もなかったとか。永楽帝は即位と同時に、秦の始皇帝以来の歴代皇帝がなしえなかった海洋覇権を求めたのである。

 永楽帝は雲南生まれで回教徒の宦官である鄭和(1371~1434年)に大艦隊を委ね、「下西洋(西洋下り)」を敢行することを命じた。西洋といっても現在のヨーロッパではない。当時の地理観でいうところの西洋、つまり現在のマレー半島以西を指す。「下る」という表現に自らが世界の真ん中の中華であり、文明の高い中華から蛮族の地に下って行くという下卑た意識が見て取れて、なにやら現在の中国が西太平洋の広い海域に第一、第二の「列島線」なるものを引き、そこに「核心的利益」を設定する身勝手・横暴に共通するようだ。

 鄭和は宝船と呼ばれる長さ137m余で幅56m余の戦艦に座乗し、60余隻、総乗組員3万人余を指揮したという。因みに、大航海時代の幕開けを告げたコロンブスのサンタ・マリア号の長さは約25m。137対25。単純比較だが、宝船の規模の5分の1以下である。

 じつは洪武帝の治世は絶えることない内憂外患に悩まされ、対外的に開かれた情況下で個人による海洋交易を全面開放することは明帝国の安定を脅かすものと看做したがゆえに、対外閉鎖によって国内の安定と皇帝権威の確立を目指した。まるで竹のカーテンを引き対外交流を断った毛沢東だ。だが永楽帝は違った。宝船艦隊による大航海によって明帝国の威風を周辺諸国に及ぼし、「四囲」を睥睨し版図に組み込もうと壮大な計画を実行に移す。

 前後7回(1405年から33年)に及んだ鄭和による大艦隊の航跡は、東南アジアはもちろん、インド洋沿岸、ホルムズ海峡、紅海、さらにはアフリカ東海岸の各地にまで及んでいる。永楽帝が艦隊を派遣した目的は様々に推測されているが、やはり東南アジア各地に逃れた反明勢力を一掃し、広い海域の海洋覇権を掌握する点にあったとみるべきだろう。明朝は確実に利益の上がる海洋交易を一手に押さえ、皇帝の財政を潤そうとした。つまり海洋強国の建設である。

 だが、この海洋覇権政策に対し、莫大な航海経費が財政を逼迫させただけでなく、カネ儲けは儒教倫理に反するなどと宦官やら官僚が騒ぎ出した。毎度お馴染みの権力争いといったところだが、永楽帝と鄭和の死をもって壮大な海洋覇権政策は幕を閉じ、明朝は中華帝国伝統の大陸国家へと還って行った。いわば広い大陸に逼塞したわけだ。

 その時から560年余りが過ぎた1996年に出版された『中国何以説不 ――猛醒的睡獅』(張学礼 華齢出版社)は、明朝が国を閉じ大陸国家という内向き政策を採って以来、中華帝国は500年来眠り惚けたまま。鄧小平が進めた対外開放こそ、長きにわたって忘れられていた「偉大なる中華」の威風を振起させるキッカケとなった――と獅子吼する。

 「我が中華民族は偉大な民族である」とは、新総書記としての第一声。今後、習近平体制において海洋強国建設がどう進行するのか。愚者は歴史に学ばない・・・そうだ。《QED》