樋泉克夫教授コラム

【知道中国 782回】                     一ニ・七・念四

 ――密やかな米中戦争協力頌歌・・・知らぬは日本ばかりなり

 じつは昨年9月13日、畹町と猴橋の2ヶ所の国境関門で、こんなことがあったらしい。

 この日午前11時20分、夏用制服の国境防備兵士が整列し、「遠征軍忠魂帰国」と記された白い10数mの横断幕を持つ。やがてミャンマー方向からやってきた霊柩車を、彼らは栄誉礼をもって迎えた。車から降ろされた骨壷は付き添ってきたミャンマー華人の手で中国側に引き渡される。中国側道路中央には仏教各派を代表する6,7人の僧侶が立ち、念仏を唱え続ける。国境防備兵士は、1つ1つの骨壷を「晴天白日満地紅」とも呼ばれる中華民国国旗がデザインされた「国民革命軍陸軍新編第一軍軍旗」で包んだ。沿道に並び歓呼の声で迎えたのは中国側の民衆や学生など。

 12時30分、畹町と猴橋の2ヶ所を出発した車列は騰冲郊外の中和鎮で合流した後、国殤墓園に向かう。墓園の白い塀に沿った1kmほどに「迎接中国遠征軍忠魂進入騰冲国殤墓園」の長い横断幕を手に、数千人の学生や市民が並んだ。

 翌14日午前9時、雲南省共産党委員会常務委員兼統戦部長、全国人大常務委員、解放軍成都軍区副政治委員など雲南省の党と軍の指導者をはじめ多くの関係者が墓園に参集する。小雨の中を荘重な音楽が流れ、「遠征軍忠魂」の「帰国」を迎える儀式が厳かに行われた後、19柱の「忠魂」は黒の中山服の若者の手で段丘墓地の一角に納められた。

 蒋介石はビルマ北部一帯に40万を超える大軍を派遣したが、日本軍の猛攻を前に惨敗。英米両軍と共に敗走している間に、10万人前後がジャングルに斃れた。共産党政権下では蒋介石政権が派遣した遠征軍関係者は日陰者として生きざるをえず、また蒋介石政権が台湾に逃れただけでなく、遠征軍首脳陣と蒋介石はソリが合わなかったなどが原因し、中台双方で遠征軍はタブー視され続けた。死して屍、拾う者なし。だが、日本人の心からなる慰霊・遺骨収集に触発されたミャンマー在住華人が旧戦場を歩き回り遠征軍の遺骨収集に乗り出す。かくして昨年9月、19柱の「遠征軍忠魂」の「帰国」が実現したとのことだ。

 だが、背景にある胡錦濤政権の姿勢を指摘しておく必要があろう。かねて遠征軍関係者の熱望していた名誉回復を、2005年に胡錦濤は決定する。これまで見てきたように滇西地域を開発に熱心に進める胡政権は、一方で生き残りも含め遠征軍関係者にとって“命の恩人”となったわけだ。いわば胡政権の後押しがあってこその「遠征軍忠魂帰国」だろう。

 この日の式典には、英米両国から滇西での対日戦争に深い繋がりを持つ関係者の血縁が3人参加している。当時の英国第36歩兵師団のF・W・フェースティング師団長の息子、米陸軍退役大佐のJ・イースターブルーク、中国駐在米国大使館付武官のD・スティルウェル空軍准将だ。退役大佐はスティルウェル将軍の外孫で、准将は遠縁に当るとか。

 当日、イースターブルークは「侵略者に対抗するため、米中両国軍人は肩を組んで作戦を展開した。こういう協力精神が永遠に続くことを切望する」と口にしいるが、飽くまでも私人としての発言。だが、スティルウェル空軍准将の場合は違った。「遠征軍忠魂帰国」に合わせるかのように開催された「米国国家公文書館収蔵中印緬戦場影像展覧(中国・インド・ビルマ戦線での米軍記録写真展)」の開幕式典で挨拶に立った准将は、制服に威儀を正し「米中両国によって戦場で結ばれた友誼は忘れられるべきではない」と発言している。会場が万雷の拍手で迎えたであろう事は、もはや想像するまでもないだろう。

 共産党、国民党、米国、英国――昨秋、騰冲の国殤墓園で和やかに進められた一連の行事は、謝罪すれば万事が水に流せると思い込むことの愚かさを痛打するものだ。《QED》