樋泉克夫教授コラム

【知道中国 775回】                  一ニ・七・十

 ――旧英国領事館の将来は・・・

 伊東の「支那旅行談」の「二六 騰越庁」の項は、「一夕リットン氏と相携え彼の太く逞しき愛犬を率して城壁に上り、涼風に吹かれつつ壁上を漫歩して俯して寂寞たる城内を瞰、仰いで突兀たる大営山を望み、支那帝国の前途を語りたる其の快感、私は終生これを忘れることは出来ないのである」で終わっている。

 中国では城とは城壁のこと。城壁の内側で市(あきない)を営むことから都市を城市という。だから伊東の綴る「騰越の城は囲六里、人口九千」に基づけば、当時の騰越は、東西南北四辺を合わせて「六里」の長さの城壁に囲まれ、「九千人」が住んでいたことになる。もちろん「六里」の城壁が、そのまま現存しているわけではない。多くの中国の都市と同じように、農村からの人口を呑み込み拡大する街並み、多様化する交通手段、モータリゼーションの荒波に直撃され、そのうえに昨今の都市再開発の大ブームという暴風の前に、為すすべもなく打ち壊され消え去るしかない。

 騰越でも事情は同じで城壁は見当たらない。だが、かつて西側城壁の中央部に穿たれていた城門の外側の脇に英国領事館は残っていた。伊東が訪ねた当時の建物かどうかは不明だが、その前には「雲南省重点文物保護単位 英国領事館 雲南省政府 二〇〇三年十二月十八日」と記された標識が立っている。

 英国領事館はこの地方特産の石造りで重厚な建物に見えたが、近寄ると石の壁には無数のデコボコが認められる。銃弾が当たって砕けた痕だ。昭和19年夏の滇西戦線における死戦の末に拉孟、龍陵を放棄せざるをえなかった日本軍が最後の最後まで守ろうとした騰越の戦闘の凄まじさが改めて伝わってくる。

 昭和19年夏、「城外の警戒陣地をすべて失って、戦場は、城壁戦に変わった。騰越城はじかに遠征軍に包囲されたのだ」。「友軍は、残されたわずかな兵員を減らすばかりであった。守備隊の塹壕は、火焔放射器で焼き払われ、兵士たちは、火だるまになり、そして黒焦げになって死んで行った」。「騰越城の守備隊は、二千数百名の将兵が、落城の九月十四日には、六十人ぐらいに減り、その六十人ぐらいも、落城の後、ほとんどが死んで行ったのである」。「脱出部隊は、林の中を、東北の方角に進んで行った。脱出部隊は、師団司令部のある芒市まで敵中を潜行してたどり着き、騰越守備隊の最期の状況を報告せよ、といわれたのである。しかし、芒市までたどり着けた者はついにいなかったのである」と、古山高麗雄は『断作戦』(文春文庫 2005年)に綴る。

 遠征軍、つまり最新装備で固めた米式重慶軍の数は4万とも6万とも。対するに我が日本軍は「二千数百名の将兵」である。城壁を盾に戦った兵士は、いったい、どんな心境だったろうかなどと思いを馳せるのだが、目の前の領事館は全面改装工事中だ。

 近い将来、昔日の勇姿を蘇らせようとでもいうのか。おそらく「雲南省重点文物保護単位 英国領事館」は中英友好のシンボルとして、また滇西における抗日戦争の記念碑として保存されるだろう。だが昆明の飛虎隊(フライングタイガー)本部がオールド・モダンな雰囲気の洒落たレストランに変身したように、やがてレストランへとモデルチェンジするかもしれない。いや、極めて高い確率でそうなると断言しておく。
外壁全体に認められる無数の弾痕は抗日戦争の“勲章”となる。ならばこそ抗日ビジネスにとっては“売り”だ。ワンサカと客が集まるはずです・・・商売繁盛・幹部発財。《QED》