樋泉克夫教授コラム

 【知道中国 764回】              一ニ・六・仲五

  ――日中戦争の一面の真実・・・やはり日米戦争だった


 「滇緬公路は龍陵の町の中央を貫き、東山陣地に突き当たって三叉路になる。右方が滇緬公路でその先に、鎮安街、拉孟がある」(『龍陵会戦』)。

 山肌を縫うようにうねうねと滇緬公路が続き、鎮安街、拉孟を過ぎ、山を下った正面に控える怒江の激流が先を阻む。怒江に架けられた恵通橋(全長84m、幅4m、10tトラックの通行可能。現在は鉄製の橋桁が残るのみ)を渡れば、滇緬公路は雲南省中央部に向かって伸び、保山、大理を経て昆明に至る。敵の心臓部・重慶への進軍も可能だったろうか。

 雲南遠征軍こと米式重慶軍は東岸に布陣し、怒江を渡河して、西岸の日本軍を攻め、滇緬公路一帯から日本軍を掃討し、ミャンマーやインド東部からの援蒋ルートを輸送される援助物資を確保しようとした。なぜなら、「日本軍はラングーンに上陸した後、中、英緬軍の抵抗をものともせず一気に中国との国境に逼り、併せて1942年5月には、雲南西部の主要な戦略拠点を押さえ、3年近くの長き亘り我が国への国際物流を切断し、我が国大後方の安全に重大なる脅威を与えた」(『遠征印緬抗戦』中国文史出版社 1990年)からだ。

 当時、蒋介石率いる国民党政権は政府機関のみならず、大学までも含む国家の中枢機能を「大後方」と呼んだ重慶一帯に移し、日本軍の東からの進軍を何とかかわそうとした。こんな奥地まで、よもや日本軍は追いかけては来ないだろうと、タカを括ったんだろう。

 だが日本軍は東側正面からは一式陸攻を主力とする長距離爆撃を敢行し、西南側からは遠く迂回して滇緬公路に沿って背後からと、重慶を東と西南の両方向から攻めたてた。だから恵通橋を確保し、精鋭部隊を怒江の東岸に大量に送り込み保山、大理と要衝を攻略することができたなら、昆明を奪えただけでなく、義勇軍を騙る米式航空部隊のフライング・タイガーの拠点を叩き、重慶の蒋介石政権の命脈を絶つことができたかもしれない。

 ところが、である。如何せん日本軍には兵力が足りない。兵站線が伸びすぎていた。それに初期はともかくも、敗色の濃くなった昭和19(1944)年以降は圧倒的物量の米式重慶軍の前には、哀しいかな多勢に無勢というものだったろう。

 『遠征印緬抗戦』は「敵との接近戦になると将兵は凡て『恐日病』に冒され、抵抗もそこそこに算を乱して敗走した」と、告白している。彼らは烏合の衆、いや烏合の弱兵でしかなかった。そこで米軍が本格的にテコ入れをはじめた。弱兵にアメリカの武器を与えただけでなく、「アメリカから50、60人からなる『参謀連絡組』を派遣し」て猛訓練を施した。「アメリカ式に装備され、アメリカ人の訓練を受け、凡て彼らの命令を受けた。遠征軍には司令部から末端の部隊までに『参謀連絡組』が配置された。常に彼らは極端な優越感を持ち、中国人などは人間扱いされなかった」。“消耗品”でしかなかったのだ。確かに人間扱いされなければ悔しかろうが、結果として「遠征軍全体の火力と作戦能力は飛躍的に増強された」わけだから、文句もいえまい。多くの元国民党将兵が回想を綴った『遠征印緬抗戦』からも、日中戦争がじつは日米戦争だったことが明らかになってくる。

 日本軍が米式重慶軍と看做す「遠征軍には必勝の態勢があった。日本軍には必勝の信念しかなかった。必勝の態勢と信念との戦いだったのだ。勝てるわけはないのである」。だが「日本軍は、寡兵よく大軍を迎撃し、粘った。アメリカの公判戦史は、大軍の苦戦のさまを伝えている」。遠征軍の「不甲斐なさを聞いて蒋介石総統は激怒し、(中略)日本軍を見習え、と言ったという。(中略)寡兵よく大軍と戦い、粘って、遅らせはしたが、結局は潰滅するしかなかった日本軍の強さを自慢してもむなしい」と、古山は綴った。《QED》