樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 728回】            一ニ・三・仲八

     ――2021年、共産党創立百周年式典を仕切るのは誰だ

 去り行く胡錦濤とその派閥が、次期とされる習近平と習に繋がる派閥の骨抜きを狙った。やはり共産党最高権力はスンナリと次世代に受け継がれることはないということだろう。

 1911年に勃発し清朝崩壊とアジアで最初の立憲共和制の中華民国建国への道を拓いた辛亥革命の百周年を祝う式典が大々的に行われたのは、昨年のこと。胡錦濤が主宰した秋の北京での式典に7月に死亡説が流れた江沢民が登場し、健在振りを内外にアピールしたことは記憶に新しいところだ。

 じつは20世紀が激動続きだっただけに、21世紀の中国は百周年記念が目白押し。共産党政権が祝う次の大イベントは、やはり1919年の五・四運動百周年ではないか。今秋、胡錦濤から最高権力を引き継ぐとされる習近平が大過なく一期目の任期を全うしたとして、国家レベルで祝うだろう五・四運動百周年記念式典は二期目の彼が取り仕切るはずだ。

 1919年に起こった五・四運動は、パリで進行中の第一次世界大戦の戦後処理を巡ってのベルサイユ講和会議が引き金だった。ドイツが中国に保有していた権益を連合国の一員としてアジアに展開していたドイツ軍を破った日本が引き継ぐという当時の世界の常識に対し、中国は執拗に抵抗。講和会議が中国の要求を拒否するや、中国は激しい抗日運動を展開する。これが五・四運動の一方の要因だが、じつは新文化運動である五・四運動は中国と中国人を縛ってきた孔子と儒教への強烈な抵抗運動でもあった。

 当時、「中国には『徳先生』と『賽先生』がいないから旧い道徳や因習に縛られたまま。進歩なく、列強のなすがままに亡国の道を歩んでいる」と叫ばれた。徳先生は「徳莫克拉西(デモクラシー)」、賽先生は「賽因斯(サイエンス)」を指す。民主と科学の持つ合理性を否定する儒教こそが中国の進歩を阻み、中国人を権力の奴隷にしたまま、というわけだ。

 さて、五・四運動百周年を祝うとして、共産党政権は抗日運動の側面を全面に打ち出しこそすれ、孔子(儒教)否定の新文化運動としての側面はそっと隠してしまうだろう。それというのも、現在の共産党が孔子は民族の偉人、儒教は民族精神の精華として内外に向けて大宣伝しているからだけではなく、じつは1989年の天安門事件の際、広場に集まった“民主派”が共産党一党独裁の中国には「徳先生と賽先生がいない」――共産党独裁下の中国には民主主義もないし、民主主義がなければ真の科学も育つわけがない――と主張し、共産党の独裁を強く否定したからである。

 天安門広場での惨劇を容易に思いこさせてしまうだけに、五・四運動が持っていた儒教否定の側面は取り上げられない。そこで専ら抗日運動の色合いを強めざるをえないことを、日本人は今から覚悟していても早すぎることはない。

 さて五・四運動百周年の2年後は2021年、つまり1921年に共産党が上海で創立されてから百年後だ。かりに習近平が最高権力を維持していたとしても、共産党の規定では党のトップの任期は連続2期10年であり、共産党創立百周年の頃には次のトップはほぼ決まっているだろう。江沢民末期の2001、02年段階で胡錦濤に、胡錦濤末期の2010、11年段階で習近平に、共産党最高ポストの後継者がほぼ固まった前例から判断できる。

 はたして習近平は共産党最高ポストを2期10年間掌握したまま共産党創立百周年の2021年を迎え、記念式典を主宰することが出来るのか。その頃になったら太子党やら共産主義青年団やらといった派閥は消え去り、民主的な政治が行われる・・・なんて期待しないほうがいい。やはり中国には永遠に「徳」先生と「賽」先生に相応しい居場所はない。《QED》