樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 724回】            一ニ・三・仲一

     ――香港の仇は・・・どこで返すのか

     『東と西』(クリス・パッテンハン 共同通信社 1998年)


 自らが語っているように、著者は「英国の最も偉大で、かつ疑いもなく豊かだった植民地の最後の総督」である。80年代後半には教育科学相、環境相などを歴任し90年には保守党幹事長に就任し、一時は首相の座まで期待されていたが92年の総選挙で惜しくも落選。かくして92年4月、香港総督として極東の地に送り込まれた。

 総督としての彼の仕事は、歴史的正当性を厚化粧させた「中国回帰」のスローガンを掲げ「金の卵を産む香港」を“居抜き“で譲り受けようとする北京を相手に、如何に高く“売り抜く”かにあったように思う。かりに返還交渉に成功していたなら、つまり香港を高く売りつけていたなら、ロンドン中央政界での復活のチャンスは多分にあったに違いない。

 だが「返還準備段階の英国の香港統治に中国が協力しない」。たとえば「旧時代の共産党のシーラカンスや大富豪予備軍、野心に満ちた三流の人物、新たに仕える帝国を見つけた大英帝国の最高勲章者やナイトたち、そしてまじめに間違った言い分を信じている」香港の人たちが、香港における彼の政治的振る舞いを極端に縛り、彼の北京に対する交渉力を著しく弱体化させた。彼の動きを縛った香港の人たちが、植民地から特別行政区と変じた現在の香港における“勝ち組”であり利得者であることはもちろんだが、じつは彼らこそ植民地香港での“勝ち組”であり利得者でもあった。彼らかするなら、“飼い犬”に手を噛まれたようなものだろうが、“飼い犬”からするなら、“飼い主”が代わった以上、新しい“飼い主”に忠誠を尽くすフリをすることは当然過ぎるほど当然であり、なんら疚しいことはないはず。この辺の“飼い犬”の心理が最後の総督には納得できなかったに違いない。

 一方、「香港はもっと大切にされるべきだった――英国からもっと大切にされるべきだった」と印している点から判断して、北京との交渉で奮闘する彼に対し、英国は彼が期待するほどには支援の手を差し伸べなかったようにも思えてくる。

 そんな彼の足元を見切ったからこそ、北京は返還までの「過渡期」において、彼を無視するかのように返還作業を進めた。総督としてのプライドを傷つけられ、裸の王様ならぬ“裸の総督”として「英国の最も偉大で、かつ疑いもなく豊かだった植民地の最後の」日々を送らざるをえなかった彼の憤懣やるかたない思いが、行間から読み取れるのである。 

■「英国殖民地に対する反感は、民主主義と市民的自由への情熱を上回るほどになっていたのだ。そこで、主権の移譲が進むにつれ、(中略)いつのまにか英国という殖民地権力から、中国というもう一つの殖民地権力へと集団脱走してしまった」

■「多くの中国人にとっては『黙っていれば、金持ちにしてやる』という政府の姿勢は、政府から期待できる最良の申し出のように思われた、一つも自由がないより、せめて金儲けの自由があるほうがいい。だが、これで中国共産党の支配基盤が磐石になったとは思えない。問題はひしめいている」

■「中国が不思議な国だといっても、経済を開放するかたわら、政治は鉄の引き締めを図るなどと想定すべきではない」

 かくして彼は、「東でも西でも、われわれはこの原則(政治的自由と経済的自由)を高く掲げ、そのために戦わねばならない。なぜなら、歴史の教えるところ、蛮族はいつも。必ず戻ってくるからだ」と、「蛮族」に対し高らかに戦闘を宣言する。

 経済力と軍事力を手に跳梁跋扈する「蛮族」・・・嗚呼、チャイナ・シンドローム。《QED》