樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 702回】              一ニ・一・仲六

    ――毎度ながら、言ってることとやってることが大違いです

    『新印譜 一・二・三』(上海書画出版社 1973年)

 篆刻は単に印鑑を彫るというのではなく、印材や字体、さらには彫る文字や章句を選ぶ。八方手を尽くしても手に入らないような奇石を求め、彫る文字や章句に相応しい字体を構想する。彫りあがった石の姿が美しく、紙の上に捺された1つ1つの文字の形、文字配列の妙、刻まれた文字全体とその文字が表す意味と印材の色艶との総合的な調和など、蘊蓄を傾けだしたら際限がない。篆刻は「我が国の悠久の歴史を持つ独特な伝統芸術」(「出版説明」)であり、古くから権力者、金持ち、文人墨客や貴人の間で伝えられてきた嗜みの1つでもあった。これを文革的に表現するなら、まさに“封建文化の残滓”そのものだ。

 文革が始まった当時、紅衛兵は「四旧打破」を叫んで街頭に飛び出していった。毛沢東の命ずるがままに旧い思想・文化・風俗・習慣を打ち破ろうとした。封建的・ブルジョワ的と狙いを定め、レストランや商店、さらには街路標識までぶち壊し気勢を挙げた。

 歴史の古い協和医院は反帝医院に、北京ダックの老舗で知られた全聚徳は北京烤鴨店に、書画・骨董の名店である栄宝斎は人民美術出版社第2門市部に、当時は不倶戴天の敵であったソ連大使館前の揚威路は反修(修正主義)路に変わった。旧いものは手当たり次第にぶち壊せ、である。他人の家に集団で押し寄せて床板、壁板、天井板まで引っ剥がし、書画骨董から貴金属、はてはラジオや自転車まで、封建的やらブルジョワ的な品々を気の向くままにぶち壊し、持ち去り・・・まさに犯罪そのもの。だが、毛沢東から与えられた「革命無罪」の“お墨付き”がある。じつに「革命」とは何をしでかしても「無罪」だったわけだから、若者にとって楽しくなかったわけがない。

 文革はまた京劇の革命でもあった。京劇に狙いを定めたわけは、毛沢東が「京劇は四旧そのものだ。だから旧い文化の象徴である京劇をぶち壊して新しい京劇を産み出すことができたら、四旧打破の戦いは全面展開できるし、完全勝利は約束されたようなものだ」と煽ったからだ、とか。そこで「毛主席のプロレタリア階級文藝路線の指導下、江青同志が心血を注ぐことによって育まれた革命様板戯はプロレタリア文藝革命の勝利の成果であり、プロレタリア文化大革命が生んだ新生事物である」(「出版説明」)ということになる。

 毛沢東夫人の江青が生み出した文革の「新生事物(成果)」として、労働者や農民、さらには抗日兵士を正面人物(英雄)に仕立てた「革命様板戯(革命現代模範京劇)」が大いに讃えられた。もっとも四人組失脚後に綴られた京劇関係者の回想では、異口同音に京劇の革命に江青は関係がないばかりか、むしろ妨げでしかなかったそうだ・・・が。

 この本は、その革命現代京劇の有名な台詞や歌詞の一部を彫った篆刻作品を収録してある。当時の超一流の篆刻家の作品だろうが、それにしても「中朝弟兄は患難を同(とも)にす」「階級の仇、民族の恨み、共に天を戴かず」「党の指示は我に無窮の力量(ちから)を賦与(あた)えたもう」「勝利のうち、須らく清醒(さめ)た頭脳(あたま)を保持せよ」「偉大なる領袖毛主席に従い、共産党に従う」「土豪(じぬし)を打(ころ)し、田地を分かてば、紅旗は招展(はため)く」などの作品を目にすると、篆刻家たちのウデの冴えとは余りにも対照的な文字の無粋さに驚くばかりだ。あるいは篆刻家たちは自らのワザのみならず、文革のバカバカしさをも後世に残そうと意図したのだろうか。

 伝統を否定しながら篆刻という伝統を誇る滑稽さ、伝統を武器にして伝統を否定する革命に踊る矛盾、いや絶対矛盾の自家中毒・・・やはり「清醒た頭脳」は永遠に無理だ。《QED》