樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 692回】            一一・十ニ・三一

     ――ワルは、越後屋だけではない

     『京城喪事』(樹軍 九洲図書出版社 1997年)

 人の死の姿は、そのまま生きてきた日々の営みに通じる。人は生きてきたようにしか死ねない。死の形は、歩んできた人生を映しだす――10世紀前後から現代まで、北京で行われてきた様々な葬儀を伝えるこの本を読んで、つくづく、そう思った。

 1956年4月27日、北京の共産党幹部居住区で知られる中南海にあって幹部専用集会所とでもいえる懐仁堂で、毛沢東以下の共産党首脳が集まり中央工作会議が開かれていた。やがて小休止。ソファーに深々と腰掛ける毛沢東の許に、秘書が恭しく伺候する。その手に捧げられた文書に墨痕鮮やかに記された「火葬を提唱する」の文字。毛沢東は「うん、見事な筆さばき」。 

 そこには「人は生まれて死に到る。これは自然の摂理だ。人が死ぬと、それなりの処理がなされるが、それ相応の形で葬り、追悼の念を表す。これは人の常の情だ。我が国でも世界の各民族と同じように、主に土葬と火葬を行ってきた。最も広範に行われてきた土葬は広い農地を使い、木材を浪費する。加えるに我が国歴代の封建統治階級はより鄭重に葬ることを宣揚したが故に、葬儀を厚く行い家庭が破産することも多くあった。火葬を実行し農地の占用を止めさせ、棺を使わず、葬儀費用を節約したところで、死者への冒涜にはならない。これこそ死者を葬る合理的な方法である。であればこそ殊に国家指導者は自らの意思に基づいて死後に火葬にふされるべきこと、併せて北京、上海、漢口、長沙などの既設の火葬場のみならず、他の大中都市と適当な地域に国家の手で近代的な火葬場を建設することを提唱する。火葬に賛成する者は署名を」と、概略でこう書かれていた。

 この文書を「うん、うん、いいことだ」と頷きながら読んだ毛沢東は、やおらソファーから立ち上がり執務机の前に進み筆を執ると、これまた墨痕鮮やかに毛沢東と署名した後、1956年4月27日と日付を加えた。そして手にした筆を掲げて、微笑みながら周囲を見回し、「次は誰だい」。朱徳、彭徳懐、康生、劉少奇、周恩来、彭真、董必武、鄧小平と当時の党の序列のままに次から次へと筆が渡され、その場に居合わせた115人全員の署名が終った。「人を炉の中に放り込んで焼くと、痛いかなあ」の声が挙がると、期せずして、その場は笑いに包まれる。中国全土を生き地獄に陥れた大躍進まで2年、全員が敵味方に分かれて死闘を繰り返した文革まで10年――革命の戦友・同志としての“素朴な連帯感”が感じられた長閑な時代のエピソードだ。

 76年1月8日、周恩来死去。彼は生前に「人が死後に骨を残すことにどんな意味があるんだ。土に撒いて肥料にしてもいいし、海や川に撒いて魚の餌にしてもいい」と語り、どちらが先に死んでも共に骨を遺さないことを鄧穎超夫人と約束していた。その死から10日が過ぎた1月18日夜8時過ぎ、鄧夫人は北京近郊の空港で飛行機に乗り込む。胸には、党中央から散骨許可を受けた周恩来の骨が抱かれていた。やがて暗い冬の夜空に周恩来の骨は消え去っていった。眼下には北京、天津の街・・・。それにしても8日、18日、8時とは縁起のいい数字の8のゾロ目。まさか偶然とも思えないが。

 56年4月の約束を守ろうとする周恩来の律儀さと周・鄧の夫婦愛を感じないわけでもないが、むしろ政敵の手で、あるいは共産党崩壊の際に、いや彼の手によって非命に斃れざるをえなかった数限りない人々の遺族によって墓が暴かれることを恐れたのでは。共産主義を生き抜いた彼ですら、やはり死後の世界を信じたということか・・・阿弥陀仏。《QED》