樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 689回】           一一・十ニ・念七

      ――大奸は忠に似たり・・・三代目若社長の行く末

 先代創業者が掲げた「米のご飯と肉のスープ」という革命方針(マニュフェスト)を実現できないままに、先軍政治とやらに猪突猛進して将軍サマが亡くなった。これを企業に喩えるなら、社内を掌握しきれないがゆえに組合幹部と手を組み、先代創業者以来の時代遅れの経営方針を墨守することで社長の椅子に何とかしがみついてきたものの、悪化するばかりの業績に打つ手もないままに急死した二代目社長といえなくもないだろう。

 組合幹部は自らが手にした既得権を手放したくはない。そこで、誰の目にも経験不測は否めない三代目を“天才的経営者”に仕立てて現体制維持を狙う。新社長に真に時代を読む力と“経営の才”と胆力とが備わっていたなら、先ず権力基盤を固め、次いで忠義面した組合出身ダラ幹経営陣を次々に血祭りに上げ葬り去る。社内にわだかまっている陋習を一掃し、全社挙げて人心を一新しイノベーションを敢行する。かくして、同じ名前でも全く違った企業に生まれ変わるだろう。そうでもしないかぎり、創業者以来の千里馬精神、主体思想などというブランドは劣悪品の代名詞として永遠に歴史に刻まれるだけだ。

 いま時が時だけに、北朝鮮の現状を様々に分析する声はある。だが正直いって、どの方向に進むのか。誰にも確たる予測はできそうにない。そこで思い至るのが、いまから35年ほど前に隣国が経験せざるをえなかった激変である。

 76年9月に毛沢東が「マルクスに見え」るべく西天(あの世)に去り、翌月には四人組が逮捕される。かくして共産党首脳陣は、生前の毛沢東が自ら授けたといわれる「你弁事 我放心(あんたがやってくれたら、わしゃ安心)」の6文字を金科玉条と持ち出し、これこそ後継のウソ偽りの無い証拠だと強弁し、華国鋒を「英明なる指導者」に仕立て上げ、毛沢東亡き後の混乱を乗り切ろうとした。当時、共産党のイデオロギー・宣伝部門は総力を挙げて華国鋒を守り立てると共に、毛沢東なき毛沢東路線を突っ走った。全人民は毛主席サマが後事を託された華主席を頭とする党中央に結集せよ、というわけだ。華国鋒ら当時の共産党主流は「二つの凡て派」と呼ばれ、毛沢東の行ったことは凡て正しい、毛沢東の言ったことは凡て正しい、とした。そうでもしないかぎり、自分たちが生き残れない。

 だが客観的に見ると、66年から10年間続いた文革によって国庫は底を尽き、共産党に対する国民的信頼は失墜し、国民は連続する政治闘争に疲れ倦み、外国との交流を絶っていたことで技術的立ち遅れは目を覆うばかり。加えて毛沢東が口を消費、手を生産に喩え「人が1人増えれば口は1つ増えるが、手は2本増える。ゆえに生産は消費を上回る」などというデタラメなリクツを振り回し出産を奨励していたことから、人口が爆発的に増加してしまっていた。いわば当時の中国は八方塞がりの雪隠詰め情況にあったわけだ。

 「二つの凡て派」が政権を握っている限り中国に明日はない。そこで中国が抱えた難問を一気に解決すべく、毛沢東路線を完全にひっくり返した。国を開き外国から資金と技術を導入し、これに有り余った人口=労働力をタダ同然で提供する。かくして「革命の工場」を「世界の工場」に大改造することを目論んだ。なによりも平等を掲げ「為人民服務」というスローガンで自己犠牲を求めた毛沢東の政治は完全に否定され、「格差OK、貧乏は敵」へと国是を大転換する。中華人民共和国から中華人民公司への“革命的イノベーション”である。それもこれも、並外れた胆力と政治的臂力を持つ鄧小平あればこそ、であろう。

 鄧小平という忠臣は最後に主君・毛沢東をバッサリ。大奸は忠に似たり。改革・開放に豪胆に舵を切った鄧小平のような人物が、はたして現在の北朝鮮に存在するのか。《QED》