樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 678回】           一一・十二・初四

      ――「乱殺風」と「殺人風」が吹き荒れた日々

      『血的神話』(譚合成 天行健出版社 2010年)

 副題は「公元1667年湖南道県文革大屠殺紀実」。つまり文革開始1年後の1967年に湖南省西南の山間部に位置する風光明媚な道県で発生した集団虐殺事件にかんする報告だ。著者は事件発生から20年が過ぎた1986年以来、20数回にわたって現地調査を敢行し、加害者・被害遺族をふくむ関係者からの聞き取り調査に加え、80年代半ばに当局の手で2年の歳月をかけて行われた調査報告など膨大な資料を基にして、気の遠くなるような時間をかけて事件の真相を明らかにしようとする。

 総字数50万余字が費やされているだけに、勢い本も500頁超。17㎝×24㎝×3.5㎝で重さが約1.3㎏と大型になっている。その分、手で持って長時間立ち読みを読み続けるのは些か辛い。それはともかく、膨大な字数に事件の本質に逼ろうとする著者の執念を感じるだけでなく、圧倒的な大きさと重さに虫けらのように、いや虫けら以下の無惨な姿で殺されていった被害者たちの無念の程が込められているようにも思えて仕方がない。

文革が始まるや、全国各地と同じように道県でもまた実権派と造反派の2つの組織が生まれ、死力を尽くして相手組織の殲滅を目指した。造反派が解放軍武器庫から銃器を強奪し戦力的に優位に立つ。劣勢に立たされた実権派の間で噂が噂を呼び、やがて噂は真実として信じられ始める。旧社会での地主や富農、右派分子など社会主義社会に恨みを抱いている反動分子が団結し、文革の混乱に乗じて造反派と手を組み、社会主義社会の転覆を目指し動き始めた。密かに近くの山中に設置された反共救国軍を支援すべく、蒋介石の国民党軍が米軍と共同で襲撃してくる――

浮き足立つ実権派は先制攻撃に出る。旧地主たちと造反派の結託を阻止しなければならない。そこで旧地主など反動分子狩りが始まった。建国以来の数々の政治闘争で散々な目に遭っている旧地主たちは文革でもまた酷い扱いを受けることを恐れ村々から逃げ出す。だが実権派は、それこそが反共救国軍への合流を目指した動かぬ証拠だと糾弾し、旧地主たちを縛り上げ自分たちがでっち上げた「貧下中農最高人民法院」に連れ出し、「即時死刑」の判決を下す。処刑方法は銃殺、斬殺、溺殺、爆殺、投殺、埋殺、撲殺、絞殺、焼殺、その他――に分かれていた。死刑は本人のみならず、一家眷属も含まれることも日常化していた。出産間近の妊婦は、「お腹の子だけは助けてくれ。出産まで執行を待ってくれ」と懇願する。貧下中農最高人民法院は「この期に及んでも生き延びようなどと罪を弁えないのか。言語道断だ」と即刻処刑。妊婦に執行された「五道酷刑」だが、敢えて原文のまま示しておくと「一割眼皮、二削鼻子、三割嘴巴、四切乳房、最後用刀通腹部、解剖出胎児」。割かれた腹から引きずり出された嬰児は鮮血の中で死んだ。処刑を前に多くが「サッパリと死なせてくれ」と口にしたというが、それほどまでに残酷な処刑シーンが展開され、その姿は見せしめのために公開されたのである。

 1人当たりの手数料が出ていた場合もあり、なかには30数人を殺し、現金収入で2年分ほどの報奨金を手にした農民もいたとか。そんな経験を持つ実直そうな農民の1人が著者に対し、「上が殺せといえば殺す。いまでも、そういわれれば目の前のあんただって」と。

 文革当時、全国各地で道県の惨劇と同様な経験したに違いない。道県における最終的な被害者数は現在でもなお特定されたはいない。共産党一党独裁体制が続く限り、真相が明らかになるとはないだろう。被害遺族も加害者も、現在の金満中国を共に生きる。《QED》