樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 675回】            一一・十一・念六

      ――やはり歴史に戻って考えたらどうだろう

      『異色ルポ 中国・繁栄の裏側』(村山宏 日経ビジネス人文庫 2002年)

 著者紹介には日経新聞の記者で「香港・台湾・中国をカバー」とある。「中国は超大国にはならない」との威勢のいい啖呵口調で書きだされる「まえがき」を読み進むと、小気味よさそうな取材姿勢が伝わってきて、何とも楽しい限りだ。

 「歩くことで裸の現実に触れ、自分なりの中国像をつくりあげたかった。各地で見て聞いたこまごました事実を拾い集め、底辺から中国の経済構造を見上げてみようと思った。手元に残った大量のメモと写真を整理し、ようやくこの本を執筆した」と語っているだけあって、市場経済が緒に就こうとしていた時期の“やっちゃ場”のような中国社会の騒然とした雰囲気を見事に描き出していて、読み応えは十分だ。

 著者は社会主義市場経済なるものを導入した鄧小平の手法を、「広東省が香港のまねをし、その広東省を他の沿海部諸地域がまねする。そして、その次は中部、内陸部の諸地域が沿海部のまねをする。沿海部から始まった豊かな生活は徐々にだが、内陸部に波及してゆく。その間、中国政府がやったことといえば外資優遇、輸出の奨励、商売の自由化(政府規制の撤廃)の施策だ。何のことはない、これも他のアジア諸国・地域がちょっと前に実践していた政策にすぎない。鄧小平を権威づけるため、学者らが動員され『段階的経済発展論』なる理論が構築されたが、鄧小平式経済発展の本質は『まねっこ経済』だ」と、半ば揶揄しつつ論評する。

 著者の考えに従うなら、「他のアジア諸国・地域がちょっと前に実践していた政策」を鄧小平が真似た、ということになる。だが、かくも簡単に断定していいのだろうか。

 たとえば張振勲という人物がいる。アヘン戦争の翌年(1841)に広東省の客家の家に生まれ、17歳で蘭領東インドのバタビヤ(現在のジャカルタ)に渡って大成功した実業家だ。仕事先の雑貨商の入り婿となり、やがてプランテーション、貿易、アヘン専売、海運などで築きあげた資産を故郷での産業振興や鉄道などのインフラ建設に投資したことがきっかけで、清朝から重んじられ、1905年には商部考察外埠商務大臣に任命され、南洋華僑に中国への投資を呼びかける任務を授けられた。

 そんな彼が清朝に提出した経済振興策の骨子は、①南洋各地には多くの同胞(華僑)が住み、ビジネスで成功した者も少なくなく、莫大な資金を抱え有望な投資先を探している。②彼らの故郷(これを「僑郷」という)は主に福建と広東だ。③彼らに税制など各種の優遇策を施し、彼らと血で繋がる僑郷に投資させ、福建・広東などの経済振興を図れ。④経済先進地と化した福建・広東に中国全土から人を送り込みビジネス手法を学ばせ、その成果を全国展開すれば、清朝(中国)経済は振興する――というものであった。

 じつは改革・開放当初、鄧小平は王光英(劉少奇夫人の実兄)を東南アジアに派遣し各地の華人企業家に対し故郷への投資(これを「感情投資」という)を呼びかけたが、王の役割は張が務めた商部考察外埠商務大臣と同じだろう。清朝崩壊期の混乱のなかで張の献策は実現しなかったが、80年ほどの時を経た後に鄧小平が実現させたのだ。鄧小平が「まねっこ」した相手は「他のアジア諸国・地域」ではなく、張だろう。そう考えたほうが、合点が行く。華僑・華人と中国の関係は、昔も今も大差なし・・・血は水よりも濃く、カネはカネを求めてイデオロギーを超える。鄧小平は、そこを弁えていたわけだ。《QED》