樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 670回】         一一・十一・仲六

     ――ドヒャーッ、共産党指導者たちのイジメですか・・・

     『文革中的検討書』(史實編著 中国文革歴史出版社 2011年)


 文革中、中央から地方末端のレベルまで、政界のみならず文化・芸術の世界まで、じつに夥しい数の指導者が、文革派によって自己批判を逼られ、デッチ挙げられた罪を不本意にも認めさせられ、濡れ衣を着せられ、粛清され、社会から抹殺され、無惨な死を迎えていった――文革の犠牲者の多くは、こうではなかっただろうか。

 当時、自己批判の概要が報じられることはあっても、糾弾する側の意向に沿ったものが多く、糾弾・追求集会の悲惨・滑稽・珍妙な実態が伝えられることは余りなかった。この本は、文革派にとって最大の敵であった劉少奇を筆頭に、厳しい追及を受けた多くの党・軍・政府幹部が苦し紛れに書かされた「検討書」(=弁明文書)を収録しているが、個々の糾弾・追及の実態が浮かび上がってきて興味は尽きない。そこで一例を・・・。

 いま、Aは昨日までの同志から厳しい査問を受けている。

 L:(Aを指差しながら)このAという人物は、上海で、毛主席の思想が世界のマルクス・レーニン主義の最高峰などといえたものではないと語っている。毛主席が最高峰でないというなら、最高権威はAか、はたまたフルシチョフということになるが・・・。

 C:(呼び捨てで)A、おい、キサマはクーデターをやらかそうとしたそうだな。

 A:クーデターなど、そんな力が俺にあるわけがない。ましてや肝っ玉などありはしない。

 C:思うにキサマは黄袍(皇帝の衣裳)を身に着けて、皇帝の位を狙った。フルシチョフを大々的に持ち上げたりして、空恐ろしいまでの野心だ。

 U:いちばん奇怪なことは、(Aを指差して)コヤツは柩に蓋をしても、人の評価なんて定まらないといったことだ。フルシチョフはスターリンに反対したから間違っていたのであり、だから修正主義だ。にもかかわらず、ソ連と仲良くだなどとホザキおって。

 X:いつも蘭の花を育てているA大先輩は、昔から政治的不満の持ち主は蘭の花を育てるものだといっていました。

 A:みんなで、この俺が野心の持ち主だといいたいのか。80歳だぞ。坂を上るにも人の助けが要る。まともに歩けない。だいそれたことなど・・・なにも出来はしない。ましてや黄袍なんぞ。我が仲間を信ずる。仲間よ、どこまでも支えてくれ。頼む。

 Z:一貫して毛主席への反対を指導してきた。(1931年当時から建国後の間に起こった政治的事件を示しながら)これら凡てはA同志と関わっているのだ。(これまでのAの行動を妄動主義、軍閥主義、流寇主義と形容し、一貫して毛沢東に反対した行動を採り続けたと糾弾した後)あなたに対する私の不満を、いま明らかにした。同志諸君の監視を望みたい。

 この集会は人民大会堂河北庁で開催されたが、日時は不明。前後の記述から1966年の早い段階と思われる。ところで、この集会から数年後、CとUは批判され失脚、Xは失脚し惨殺と同じような処分を受け、Lは毛沢東に叛旗を翻したとして逃亡死。政治的にも生き残ったのはZのみ。ところで、Aは人民解放軍の生みの親で革命の大元勲である朱徳、Lは国防部長の林彪、Cは外交部長の陳毅、Uはモンゴル族出身で少数民族政策推進者のウランフ、Zは周恩来。鄧小平も参加したこの集会の主宰者は、Xの劉少奇である。

 北京の最高権力者たちの生き残りを賭けた内ゲバの一端・・・敵の敵も敵だった。《QED》