樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 667回】           一一・十一・十

     ――独裁者は、独裁者の失敗から何も学ばない

     『スターリンの子供たち』(オーウェン・マシューズ 白水社 2011年)

著者の祖父は、1930年代初期にウクライナの原野に世界最大級のハリコフ・トラクター工場(略称はKhTZ)を建設するという大功績を挙げながら、後にスターリンによって粛清されたボリス・ビビコフ。祖母は、その妻。母親は「人民の敵」を両親に持ったことから辛酸を嘗め尽くすことになるボリスの下の娘で、父親はモスクワのイギリス大使館で働いていた時に彼女と結ばれるイギリス人。著者はソ連崩壊後のロシアとその周辺の国際社会の激動を見続けているジャーナリストである。

 表紙の帯には「冷戦下、過酷な運命に翻弄され、英国とソ連に離ればなれになった両親の足跡と、『家族三世代の愛と闘い』をたどる長い旅。ロシア版『ワイルド・スワン』と激賞された、感涙の傑作ノンフィクション!」と記されている。だが、敬愛する父親を狂死に至らしめた張本人は毛沢東だとし、行間から毛沢東への個人的怨念が滲みだすような筆致で綴られている『ワイルド・スワン』とは違って、著者は独裁者スターリンの犯罪性を鋭く告発するものの、個人的恨みは驚くほどに抑制気味だ。それだけに理不尽極まりない仕打ちを平然と繰り返す独裁者への恐怖と底知れぬ憤怒が、ヒシヒシと伝わってくる。

 スターリン治下のソ連における日々――著者が描き出す彼と血で繋がる人々の苦闘の歴史は恐ろしいまでに興味深いが、なによりも驚かされるのはスターリンの政治に毛沢東が猛進させた大躍進政策を連想させるものがあり、独裁者の意に沿うように振る舞わざるをえない人々の滑稽であるがゆえに悲惨すぎる姿だ。以下、2,3ヶ所を挙げてみると、

■今や一九三〇年の冬が始まり、ウクライナ全土とロシア南部に空腹が襲いかかった。数百万人の農民が避難民と化し、都市に殺到、キエフやハリコフ、リボフ、オデッサの街頭で息も絶え絶えになった。飢餓地帯を通過する列車には襲撃を避けるための武装衛兵が配備された。ロシアの世紀につきまとう最も忌まわしいイメージのひとつは、虚ろな表情をした農民がウクライナのある市場の露店で、バラバラにされた子供たちの死体を食肉として売っているところを撮った写真だ。

■夢想家であるよりは実務管理者である草の根レベルの党員たちは男女を問わず、常軌を逸した変革の速度に持ちこたえるのは不可能なことをその目で見抜いていた。けれども、世情に疎い扇動者であるスターリンは、破滅的な結果が明白なのにもかかわらず、生産力増強、収穫高向上、集団化促進への精力的な取り組みを呼びかけた。

■彼らは集団化の速度を落とすキーロフ提案にもろ手を挙げて賛成する。それは致命的な過ちだった。既に被害妄想に捕らわれていたスターリンの心中では、集団化の無謀な速度を緩和しようとするキーロフの試みは、革命を率いるイデオロギー上の指導性への許し難い侮辱であり、挑戦であった。スターリンはだれがどのように票を投じたかを忘れはしなかった。復讐は四年かけて行われた。

■スターリンが党大会で見分けた、党の心臓部に潜む敵どもに対する復讐に出るには、時間はたっぷりとあるのだ。

 ここに挙げた記述のうちのスターリンを毛沢東、キーロフを大躍進に異を唱えた彭徳懐国防部長(当時)、カタカナの地名を適当に漢字の地名に置き換えれば、そのまま50年代末から文革に続く数年間の中国といっても間違いないだろう。

 やはり独裁者は、独裁者の失敗から何も学ばない・・・随意学習・天天向下 ?!《QED》