樋泉克夫教授コラム

川柳>>>>>>>>>>>
《大串聯 旅行玩楽 全免費》⇒《紅衛兵(わかもの)は 勝手気ままに 旅まかせ》
*北京へ行って広場から天安門楼上の毛沢東を拝した後、延安などの革命聖地を”巡礼”し、ついでに全国の名所旧跡に足を伸ばす。「毛沢東のよい子」がアナーキーな時間と空間の楽しみを初めて知った瞬間だった。
  【知道中国 663回】            一一・一・初二

     ――言い掛かりも、ここまでくると頭が下がります

     『狠批“克己復礼”』(北京人民印刷廠工人理論組 人民教育出版社 1974年)

 「編者的話」に、林彪批判運動のなかで理論的に鍛えられた「若者と老年の労働者が手を携え大量の批判文を書き出した。我が工場の理論隊伍はまさに健やかに成長を続けている」とある。ということは「我が工場の理論隊伍」が、この本に収められた21本の論文を書き手ということだろう。

 論文の表題をみると「『正名』とは歴史の歯車を逆転させること」「林彪の『挙逸民』を断固として許すな」「林彪の『復礼』を断固として許すな」「『天命』を徹底批判し、革命を堅持せよ」「林彪の『仁政』の化けの皮を引き剥がす」など、正名、挙逸民、復礼、天命、仁政などの儒学理論の根本命題を掲げ、林彪の悪行を暴きたてている。どれも興味深いものの、やはり最高ケッサクとして推したいのが「青年労働者、理論補導員 李立民」が書いた「封建ファシストの『天馬』」だった。そこで、その要旨を紹介しておきたい。

 「林彪反党集団は極端に狂妄な野心家、陰謀家の巣窟である。早くも1962年、林彪は『天馬行空、独往独来』と自ら揮毫し、自分の枕元の壁に掛け座右の銘とし、日々口にして忘れないようにした。・・・これこそヤツ等が党権力を簒奪しようという凶暴な野心を曝け出したものだ」と書き出された論文は、次いで「林彪が自らを『天馬』に擬えるにようになった来歴について、我われ労働人民は徹底して知る必要がある」とし、林彪が自らを「天馬」に喩え、働く人民を如何に侮蔑し、嫌悪していたかを説く。

 「林彪の遠い師である孔子のバカタレ」は自分を「天生の徳」を持つ「聖人」だと鼓吹し、その弟子の孟子は自分を「天下を平らかに治めることのできる『英雄』」だ己惚れた。こういった類の唯心主義のバカバカしい屁理屈が「歴代統治階級に奉られ至宝とされ、労働人民を騙し反動的な統治を維持するための精神的な武器となった」。封建帝王は例外なく自らが「真龍天子」を演じてみせ、「独夫民賊(稀代の悪党)の蒋介石」は自分を先の先まで見通すことのできる「偉人」だとほざいていた。林彪は「天馬」と記すことで、自分は「真龍天子」だと思い込んだ。「これこそ、林彪が歴史上の反動派と同じ穴の狢であり、我われ労働人民が死んでも赦せない敵であることを明らかにしているのだ」。

 「天馬は龍の仲間で、雲に乗って天空を飛び回ることができるといわれている」。「林彪は自分を『天馬』とし、『至貴』『超人』と思い込み、自ら『頭の形が素晴らしく、殊に打てば響くように優れている』と吹聴し、時代の命運を握り『未来の歴史を左右する』」としているが、これは19世紀のドイツ反動思想家ニーチェの説く「超人」と同じだ。ニーチェの「超人哲学」はビスマルクの弱肉強食政治に正当性を与え、独占資本階級の立場を補強し、「殺人魔王ヒットラー」を生み、ソ連修正主義による対外的拡張と国内的人民弾圧を導いた。「天馬」であればこそ林彪は、党の権力を奪い取り、プロレタリア独裁をひっくり返し、林家父子による封建ファシスト独裁政権を打ち立て、ヒットラーや蒋介石になり代わって稀代の悪党となり、「ソ連社会帝国主義の『核の傘』に守られた皇帝」を目指した。

 「誰であれ党に反対し、毛主席に反対すれば、当然のように人民からツバを吐きかけられる。林彪は人民に追われコソコソと逃げ出し、モンゴルで墜落死し、犬のクソになってしまった。だがプロレタリア階級の天下は爛漫の春のように輝き、長江の水は滔々と流れている」・・・そりゃまあ、よござんしたネエ。

 口から出任せの悪罵だが、ここまでくるとリッパな芸、それも革命的至芸です。《QED》