樋泉克夫教授コラム

川柳>>>>>>>>>>>
《不出声 中蘇両党 罵対方》⇒《困窮時 中ソ論争 おっぱじめ》
*フルシチョフは中国が飢餓地獄に落ち込んでいた1959年に訪米し平和共存路線を打ち出す。これを中国共産党は国政共産主義運動への裏切りと非難。長く不毛な中ソ論争という名の罵倒合戦がはじまる。
 【知道中国 629回】           一一・八・三一

     ――権力闘争とは、歴史解釈権をめぐる壮絶な闘いである

    『秦始皇金石刻辞注』(《秦始皇金石刻辞注》注釈組 上海人民出版社 1975年)

 中国最初の統一王朝である秦を打ち立て、そう名乗ることで統一王朝最初皇帝に即位したことを歴史に刻む一方、秦王朝の永続を願った始皇帝は、自らが版図と定めた広大な領域内を5回にわたって巡幸し、各地に石碑を立て天下統一を天に向かって報じ、王朝の永遠に隆盛なることを祈念した。
この本では、始皇帝が遺したといわれる石碑の碑文を示し、判り易く解説した後、全文を平易な現代文に改めている。たとえば紀元前219年の第2次巡幸に際して登った聖山で知られる泰山に置かれた碑文の冒頭の「皇帝臨立 作制明法 臣下修飾」を、「秦の始皇帝は皇帝に即位した後、制度を定め法令を明らかにし、官吏をして法を厳守せしめた」と訳しているように。

 ここで注目して貰いたいのが、この本が出版された75年という年だ。1年後には毛沢東に死が待ち構えていたとはいうものの、その影響力は依然として絶対的だった。その毛沢東を後ろ盾にして、四人組が毛沢東思想原理主義を振り回し暴政を行ったといわれる時代である。であればこそ、単に現代的解釈を施した始皇帝の碑文集で終わるわけがない。

 冒頭の解題に「歴史上、滅亡への道を歩んでいる反動勢力は、必ずや孔子を尊敬し法家に反対し始皇帝を批判する。ブルジョワ階級の野心家、陰謀家、両面派、叛徒、売国盗賊の林彪もまた内外の反動勢力と同じように、孔子を尊敬し、法家に反対し、始皇帝を罵倒し呪詛した」。「始皇帝が各地に刻ませた碑文は始皇帝が法家の路線と政策を推し進めた歴史的功績を全面的に表し、当時の新興地主階級と没落する奴隷所有貴族階級の間の復辟と反復辟の2つの階級、2つの路線の激烈な闘争を反映している」。かくして「我われは毛主席と党中央による批林批孔に関しての系統的指示を断固として貫徹し、勝利の中でさらに前進し、上部構造における社会主義革命を徹底的に進めよ」とみえるが、この本は始皇帝碑文解釈に名を借りた林彪批判の政治文書なのだ。

 この本では始皇帝の政治を、①統一を堅持し、分裂に反対し、全国で遍く郡県制を実施した。②秦による全国統一のための戦争の正義性を宣揚した。③農業を重んじ商業を抑える政策を遂行し、農業発展政策を実施した。④法制を統一し、法律によって国を治める政策を励行した。⑤ある碑文に「器械一量、同書文字」と刻まれているように、度量衡、文字、荷車の車輪幅など経済、文化の方面で国家の統一を強化する政策を実施した――と高く評価している。始皇帝の暴政の象徴ともいえる焚書坑儒には明らかな言及がないのが奇妙といえば奇妙だが、当時、毛沢東を始皇帝に擬えていただけに、さすがに焚書坑儒=言論弾圧に対する肯定的評価はできなかったということだろう。

 ところで林彪を批判するのに、2千数百年も昔の始皇帝を引っ張り出してくる必要はあるのか。いいかえるなら歴史上に偉大な治績を残したとの評価の当否はさて置き、紀元前に生きた始皇帝を持ち出し、現代の政敵を屠り去る根拠にする妥当性はどこにあるのか。この疑問を解くカギは、彼らの歴史認識にこそある。やはり彼らにとっての歴史とは、いま現に行われている政治の正統性・正当性を支え貫くための道具であり、自らの立場を取り繕ううえでの方便でしかないことを知るべきだろう。

 彼らにとっての歴史認識とは、荒唐無稽で身勝手極まりないもの・・・本当です。《QED》