樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 628回】            一一・八・念九

      ――シンガポールでも、「ジャスミン革命」への予感

 シンガポールでは27日に17年ぶりに大統領選挙が行われ、トニー・タン(陳応炎/71歳)が当選。9月1日に7代目の大統領に就任することとなった。投票日当日の有力華字紙の「聨合早報」が一面で報じた略歴をみると、トニー・タンはオーストラリア・アデレード大学の応用数学博士。元副首相で現在は政府投資会社(GIC)副社長で国会議員。加えるに与党・人民行動党(PAP)主席とある。ならば順当な結果といえそうだが、実は薄氷もの。

 今回の選挙で注目されたのは、5月の総選挙結果がどのような影響を与えるか、であった。65年の建国以来、政界内外に極めて強い影響力を発揮してきたリー・クワンユー(李光耀)の政局運営に対する「嫌気」「否」の素朴な国民感情が、微増ではあるが野党の議席拡大に繋がったとも見られていた。それだけに野党の動向、というよりもリー主導のPAPによる国家運営に対する輿論が国民の投票行動にどのように結びつくかであった。

 5月の総選挙の結果、リーは事実上の責任を取る形で閣僚を辞任し政界の第一線から退いた。それだけに今次大統領選挙は、リー不在のPAPにとっても今後を将来を占う試金石でもあったわけだ。それゆえ選挙戦に臨んでトニー・タンはリーの後継者としての振る舞いを見せる一方、リー・シェンロン(李顕龍)首相が国民の団結を盛んに呼び掛けていたが、5月の総選挙結果が大統領選に影響を与えないよう側面支援をしていたように思える。

 だが選挙結果を得票率でみると、トニー・タンの35.19%に対し2位のタン・チェンボク(陳清木/71歳)は34.85%で、その差は0.34%で投票総数2,153,014票のうちの7,269票に過ぎない。しかも再集計を実施しなければならないほどに微妙な差だったのだ。

2位のタンはシンガポール大学医学部出身の医師で、しかも国会議員でPAP中央執行委員。あるいはタン医師に投票した有権者の意識のなかには、彼個人に対する感情を越えて、その政治的背景に対する違和感があったように思えてくる。タンは勝利演説で、リー首相は選挙結果に対する声明で、共に「国民の団結」を強く訴えていたが、やはり5月の総選挙結果は今次大統領選挙に微妙な影響を与えていたということだろう。ある政治学者は「選挙民が持つ安定的で確実な保守傾向が現れた結果だ」と評していたが、“リー・クワンユーの時代”が静かに去りつつあることは否定できないだろう。

 ところで興味深いのが、第3位で25.04%の票を獲得したエリック・タン(陳如視/57歳)の選挙戦中の主張である。ケンブリッジ大学で哲学・経済・政治を学んだ彼は、ゴー・チョクトン(呉作棟)前首相の私設秘書を経てモルガン・スタンレー入り。5月の総選挙には野党の民主党から出馬して当選を果たしている。エリックは大胆にもGICと同じく政府投資会社のテマセク株を売却し、その利益で新たなビジネスを創造させるべきだと主張したのだ。同社の総資産は11年3月末段階で2000億シンガポールドル前後(邦貨換算で1兆2億円前後)と報じられているが、創業はリー・クワンユー全盛期の74年でトップはリー首相夫人。アブダビ投資機構、ノルゥエー政府年金基金、サウジアラビヤ政府投資基金、中国政府投資公司など世界の名だたる政府系大型投資基金の先駆けであり、一面ではリー・クワンユー王国の象徴ともいえる存在なのだ。

 “リー王国”の象徴ともいえるテマセクに、エリック・タンは敢然と切り込んだ。
 現地の政治学者の友人は「豊かなシンガポールで『ジャスミン革命』はありえない」と語っていたが、“リー・クワンユーのシンガポール”にも黄昏が訪れつつことは確かだ。以上が、たまさかのシンガポール滞在中に接した大統領選に対する素朴な感想である。《QED》