樋泉克夫教授コラム

  【知道中国615回】            一一・八・初七

      ――タイ政治・・・異次元突入か

 8月5日、タイ下院はタクシン元首相の一番下の妹で18歳違いのインラック女史を首相に指名した。
 かくてタイ初の女性首相が率いる連立政権が発足することになる。

 ところで海外での逃亡生活を余儀なくされている実兄のタクシン元首相だが、首相とはいえ、実妹が連立与党の数の力を背景に直ちに恩赦を与えるようなことは考えられそうにない。ということは、当面は海外生活続行ということか。だが、実妹が首相で下院過半数を占める最大与党のプア・タイ党がタクシン支持政党である以上、タイ政府のみならず外国政府もまた、タクシンへの対応はこれまでと違ったものにならざるをえないはずだ。やはり、これまでのような冷たい仕打ちはできないだろ。敗北した前与党の民主党は選挙違反容疑を理由にプア・タイ党の解党を求めて告発したが、裁判所が直ちに解党という判断を下すとも思えない。司法関係者のみならず国内世論もまた司法による過度の政治介入が06年以来の政局混乱の一因だったと看做している以上、解党という判断は下し難いだろう。

 かくして、06年以来のタイ政局を左右してきたタクシン対反タクシンの基本構図に基本的な変化はないように思えるが、ここで改めてタイ内政の基本構造を考えてみたい。

①P・P体制の終焉=「4月バカクーデター」(81年4月)から「5月事件」(92年5月)を経て昨春の「赤シャツ騒動」に到るまで、80年代初頭以来の混乱する政局を最終局面で安定化させ、国論の二極化を未然に防いできたプミポン国王(P)とプレム枢密院議長(P)の高齢化に伴い(84歳と91歳)、その政治的影響力は後退するばかり。2人は政局混乱に際しタイという船の漂流を防ぐ「碇」の役割を果たしてきたが、世代交代の潮流のなかで、彼らに代わりうる権威と権力は見当りそうにない。少なくとも国王との太いパイプを持ち、官界や財界に隠然たる影響力を維持し、国軍を断固として抑えてきたプレム大将に代わりうるような存在を求めることは、ほぼ無理だろう。

②ABCM複合体の機能不全=A(王室)、B(官僚)、C(財界)、M(国軍)が相互に協力・依存して戦後のタイを経営し、既得権益を享受してきた。だがタイ社会の変化の過程で、彼らが既得権益を独占してきたことに対し社会各層に疑問の声が挙がり、経済発展によって勢力を持ち始めた新興企業家のみならず、農村や都市貧困層までが挙げようになった「否」の声は抑え難い。目下のところ彼らの不満を掬い取り国政の場に反映させる“装置”として機能しているはタクシンのみ。ここでタクシンを個人というよりも、ABCM複合体への不満表明の記号と考えるのが実態に近いのではなかろうか。

③タクシン支持の声の全国化=タイ愛国党を結成して国政選挙に臨んでから今回の総選挙まで、10年余の間に実施された総選挙において、政党名に違いはあるもののタクシン政党は負け知らず。たとえば民主党はタイ南部を支持基盤するが東北部や北部で多くの支持者を得られないように、基本的にタイの政党は地域色が強い。目下のところ、農村や都市貧困層の与論を含め、これまでの「ABCM複合体主体のタイ」への不満を全国的に吸い上げうるのはタクシン政党のみといえそうだ。

 かく考えると、タクシンに「金満・悪徳・独裁者で民主主義の敵」といったレッテルを張ることが如何に現実離れした見方であり、大きく変動しつつあるタイ社会の現実から目を逸らせることに繋がっているか判るだろう。いつまでもタイを「微笑みの国」だと思い込みたいのは判らないでもないが、それが錯覚でしかないことに、もう気づいてもいいのではなかろうか。タイ政治は確実に新しい局面に向かって進みつつあるのだ。《QED》