樋泉克夫教授コラム

~川柳~ 
《在万隆 中国代表 来求同》⇒《バンドンで 外交戦を 制したり》
*バンドン会議での周恩来の振る舞いに世界は幻惑され、好感を抱くこととなる

  【知道中国 605回】            一一・七・二〇

      ――その昔、雷鋒というバカ正直な党員がいたそうな・・・

      『雷鋒日記(増訂本)』(香港朝陽出版社 1969年)
  
 雷鋒(1940年~62年)は湖南省長沙生まれ。父親の雷明亮は27年に湖南・江西省境で毛沢東が指導した秋収蜂起に農民協会自衛隊長として参加し、44年に日本軍との戦いで犠牲になる。人民解放軍に入隊した60年に共産党入党。工程(工兵)運輸連(中隊)運転手。撫順市人民代表。執務中事故死。没後に彼の人民に奉仕する姿勢が高く評価され、63年3月5日の「人民日報」で毛沢東が「雷鋒同志に学ぼう」と表明したことから、「模範兵士・雷鋒同志に学ぼう」運動が全国的に展開されるようになった。この運動は毛沢東への個人崇拝を大いに煽る働きをしたことから、文革中には殊に盛んに行われた。以後、毎年3月、「雷鋒同志に学ぶ」キャンペーンが行われている。

 以上が人名事典風に綴った彼の生涯だが、この本は、毛沢東が「雷鋒同志に学ぼう」と呼び掛けるキッカケとなったといわれる雷鋒の日記のハイライトを収めている。
表紙を開くと「雷鋒同志に学ぼう」(毛沢東)、「全軍の同志は雷鋒同志を手本として学び、毛主席の立派な戦士になるべきだ」(林彪)、「雷鋒同志から、明確なる階級の立場、言行一致の革命精神、滅私奉公の共産主義の風格、自らを顧みないプロレタリア階級の闘志を学ぼう」(周恩来)――60年代末の北京の最高首脳陣が筆で認めた讃辞の後に、トラックを整備している雷鋒の“遺影“が続く。

 彼が毎日きちっと記していたかは不明だが、「一九五八年×月×日」から亡くなる直前の「一九六二年八月十日」までが収められている。最も多く収録されているのが61年、62年の分で、他の年は抄録といったところ。なにはともあれ、興味深い記述を拾うと、

■58年×月×日=「河の流れは滔々と海に注ぎ、海上に真っ赤な太陽が昇る。六億人民が頭を上げて望めば、毛沢東の光が四方を照らす。どんなに暗い隅っこでも、暖かい太陽に再び回り逢う。嗚呼、偉大なる領袖・毛沢東。宇宙の万物をしてすくすくと成長させる。偉大なる領袖・毛沢東は、我らを勝利と解放に導いた。我らを生産建設に教え導き、困難と貧困とを埋葬せしめた。我らを教え導き敵に勝利し、祖国を繁栄と富強に変え給うた」

■59年×月×日=「毛主席よ、父のようだ。毛沢東思想は、まるで太陽だ。父は常に私を心に懐い、太陽は私を成長させてくれる」

■60年1月8日=「今日は一生忘れることができず、我が生涯最大の幸福と光栄の日だ。新しい戦いの持ち場に着き、黄色の軍服を身に着け、光栄にも人民解放軍に入隊したのだ。今日、数年来の願いが実現したのだ。形容しようのない心の高鳴りと万感の喜びを痛感する。我が生涯最高の幸福だ。(中略)この革命の大家庭において首長(=上司)は両親に勝り、戦友は兄弟より親しい。党が導く人民の軍隊であればこそ、である」

■60年11月8日=「我が人生で永遠に忘れられない一日だ。今日、光栄にも偉大なる共産党に入党し、自分にとって限りなく崇高な理想を実現したのだ。(中略)全人類の自由、解放、幸福を実現するため、どんなに高い山岳でも、大海でも、大きな河川をも恐れず、党と人民の事業のため、たとえ火の海であれ刀の山であれ、敢えて立ち向かおう。頭は断たれ骨は砕けようが、紅い体と赤い心は永遠に変わらない」

 毛沢東思想の忠実な実践者、人民の善良な兵士・・・遠い、遠い昔のお伽噺なんです。《QED》