樋泉克夫教授コラム

~川柳~ 
《我天下 吃的問題 最重要》⇒《さあみんな 腹満たすため 地主狩り》

  【知道中国569回】            一一・五・初九
   
     ――中国革命にかけた日本人の「講談味」のある人生とは・・・

     『鈴江言一伝』(衛藤瀋吉・許淑真 東京大学出版会 1984年)
  
 戦前の日本で、中国の市井にドップリと漬かりながら中国の政治と社会とヒトの行く末に思いを致していた日本人を挙げろといわれれば、つじちょうか・たちばなしらき・きたいっき・なかえうしきち・すずえげんいち(辻聴花・橘樸・北一輝・中江丑吉・鈴江言一)の5人を挙げたい。もちろん思想信条には異はあるが、その生き方には頭が下がる。

 鈴江は1894(明治24)年に島根県に生まれる。衆議院議員で事業家の父親が倒産したことで、一家の生活はどん底に。車夫をしながら明治大学に通うが、1919年には北京に。以後、北京での生活が続く。鈴江と深く関わりあった人物を拾ってみると、石田英一郎、渡邊政之輔、佐野学、鍋山貞親、尾崎秀美、アグネス・スメドレー、風間丈吉など。時に鈴江は、「コミンテルン上海極東局・秦貞一」「コミンテルン使者・劉」を名乗って日本にやって来ては日本共産党の幹部と秘密裏に接触していたというから、ここから、著者が「見事であった」と評価する「鈴江の擬装」の裏側が浮かび上がってくるだろう。つまり鈴江は日本人でありながら中国共産党の一員として、中国革命に挺身していたのだ。

 死の床で鈴江は、「私の私行だけが分かっていて、其他の事が分かっていないのは面白いな」と語っていたそうだが、半ば「其他の事が分かっていな」がら、鈴江の人物を見込み、北京における経済上の援助を与えていたのが、当時の外務省親米派の重鎮で後に首相を務めた吉田茂であり、同じ島根出身の「北京領事館巡査石橋丑雄」だった。

 吉田や石橋と鈴江の関係を著者は、「その吉田も石橋も知らん顔して、鈴江のことを『人物は確かで』とか『思想穏健』とかいっている。あるいは外務省の青年官吏諸公すら、鈴江の書いたものを読んで百も承知の上で、面白いやらせて見せろ、ということであったかもしれない」と断った後、改めて「人はこのような話を浪花節的といって嫌うかも知れない。ことに、戦争中、中国人に向かって一所懸命日本文化を再認識せよ、認識不足を改めよと叫んだ『愛国者』や、戦後はまたどうしても、世界中をきっちりと帝国主義の側と人民の側とに色分けせずにはおれぬ『正義の士』にとっては、右のような話(鈴江と吉田、石橋、それに「青年官吏諸公」との関係)は歴史の流れと何の関係もないつまらない些事であろう。ところが筆者たちにはこのような話が『人間』の機微を衝いているようでまことに楽しいのである」と微笑ましく捉え、「鈴江のことばを借りれば、歴史に『講談味のない』のはまったくつまらない」と閉じている。

 北京生活もだいぶ板について来た1923(大正十二)年頃から、京劇小屋に日参し、戯票(入場切符)を集め、自ら楽器を手に稽古に励むなど、鈴江は京劇に狂いはじめる。 
同じ北京住まいとして鈴江を物心両面から支えたのが、中江兆民遺児の中江丑吉だ。中江が遺した中国古代思想に関する膨大な遺稿整理を、鈴江は死の間際まで気にかけていたという。日本敗戦の5ヶ月前の1945年3月15日死去。5月に北京の日本人墓地の中江の傍らに建碑。「鈴江言一碑」の5文字を揮毫したのは20世紀中国を代表する画家の斉白石だ。ここからも、鈴江の北京生活が浮かんでくる。さぞかし愉快だっただろう。代表的な著作に『孫文伝』『中国解放闘争史』(後、『中国無産階級運動史』)『中国革命の階級対立』。 

 北京を舞台に「講談味」に溢れた人生を送った日本人を、記憶に留めておきたい。《QED》