樋泉克夫教授コラム

~川柳~ 
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  【知道中国 567回】            一一・五・初五

     ――「日本の首を吊るすロープは、日本製でいい」わけがない

    『黄土の道 中華人民共和国獄中二十六年』(今井欣之助 秀英書房 1999年)

 著者は「世界大戦のさなか、私は母と共に大陸に行き、青島で日本の敗戦を迎えた。終戦後、中国に残」り「北京で苦学し、その後、幹部候補生として中国人民解放軍に入り、解放戦争に参加した。解放後、除隊して、母とともに日本への引き揚げを希望した」が不許可。54年に「中国大陸からの脱出を企て投獄され」る。その後の26年間、「監獄の強制労働場で働いたが、いく度にもわたる帰国請求のすえに、一九八〇年一月になって、ようやく日本に帰ってきた」。

 この略歴からも容易に想像できる凄まじい“中国体験”の一端は、

 ■(日本敗戦後)「アメリカの軍用毛布、罐詰が陸揚げされると、まず新華社の記者が演出役の老婦、子供を数十人集めて国連の救済物資を分けあたえ、うれしそうな表情をクローズアップで撮った。人民解放軍が物資を民衆に分配したという、新聞掲載用の宣伝写真を撮り終わると、新兵は山積みの物資を分けあたえられ、分乗するジャンクで闇の海を渡ってソ連軍のいる旅順に上陸し、獲得した日本軍の武器を受け取った」
 ■(国共内戦中、国民党軍の軍閥系指揮官は)「手持ちの兵を自分の地位と財源を保障する唯一の財産と考えていて、自軍から死傷者を出すのを極端に嫌」い、「自軍の兵が戦死したときでも、兵士名簿に名を残し、中央軍の監査があれば、支給軍費を削減されないようも友軍間で点呼用の兵を貸し借りし、幽霊兵の給料を着服した」
 ■(国共内戦中、国民党軍の)「装甲列車の砲火で多くの死傷者を出していた解放軍は、二人の頑固な『反動分子』を見せしめに済南駅の陸橋、天橋の欄干に縛りつけ、銃剣でめった刺しにした。殺された二人の捕虜は裂けた腹から内臓が流れ出し、交通量の多い陸橋で黒くなるまで晒し者にされていたが、死体が放つ悪臭に耐えかねた市民が軍事管制委員会に請願し、やっとのことで片づけてもらった」
 ■「中国では銃殺刑が執行されると、遺族は公安機関から『子弾費』(銃弾費)の支払いを命じられる。銃弾一発の値段は、一九五〇年代は一角五分、文化大革命時代は五角、一九八〇年代の公定価格は九角だが、インフレのため、辺鄙な地方では、一元五角から二元を要求されている。ただし、死体の返還を要求する遺族が、死者の臓器の摘出に同意すれば、子弾費は免除され、臓器提供の謝礼として公費で火葬され、遺骨箱が贈られる」
 ■「党の用語で言う『人民』とは『赤い統治者』をさし、決してリンカーンが説いた『人民の、人民による、人民のための政治』の『人民』ではなかった」。「つまり、『国民』とは、『国籍だけある、処刑すべき屑』という意味だ」。
 ■「党幹部の中でただ一人、『為人民服務』の五文字を横に並べたバッジを特権のように胸につけていた国務院総理、周恩来が忠誠心を字にして誓って見せた『人民』は、毛沢東のようであった」

 最後の発言は、中華人民共和国で人民は毛沢東のみ。他は人民ではない。そこで為人民服務は人民=毛沢東のために凡ての国民は服務せよ――ということになるわけだ。ならば、あの時代の挙国一致の狂態も理解できる。そう、一人は一人の為に、みんなは一人の為に。

 著者は日本人に対し、経済大国となった現在の中国の表皮の下に過去の中国が息づいていることを忘れるなと説きつつ、「(飛行機で)わずか数時間のところに、日本を敵視する大国の中国がある・・・。目を欧米にだけ向けている日本人は、今に必ず、頭をかかえて真剣に考えなければならない日が来るだろう」と、改めて警告を発している。《QED》