樋泉克夫教授コラム

~川柳~ 
《今滅色 建国理想 白受累》⇒《建国の 旗色褪せて 忘れられ》

  【知道中国 561回】            一一・四・念三

     ――イタチの最後っ屁・・・それとも断末魔の悪あがき

     『要害是復辟資本主義』(人民出版社 1976年)
 
 周恩来死去(1月)、朱徳死去(7月)、唐山大地震(7月)、毛沢東死去(9月)、四人組逮捕(10月)と、49年の建国以来の大事件が連続して起こった76年の2月、この本は出版された。

 「史上空前」の「人々の魂に触れる革命」と喧伝された文化大革命も、はじまってから10年。一時は「毛沢東の親密なる戦友」と持て囃された林彪がソ連への逃亡を企てモンゴルの砂漠に墜落死してから5年。四人組による訳の判らない批林批孔運動が始まってから2年。この本が出版された頃には、さすがの毛沢東も精神的にも疲労困憊。萎えた気力と衰えた視力ながら、京劇映画に見入る日々。その京劇も、毛が推奨し文革宣伝に利用した革命現代京劇ではなく、文革で否定した旧い文化の象徴として抹殺した古典京劇・・・嗚呼、ゼッタイ矛盾の自己同一、いやゼッタイ矛盾の自己撞着、いやゼッタイ矛盾の自家中毒。

 この本に納められた4本の論文は、凡て当時の中国メディア界で最高権威として知られた党機関紙の「人民日報」で発表されたものだが、それぞれの論文が掲載された日付を見ておくと、①「要継続批孔(孔子批判を継続させよ)」=2月13日、②「批判唯生産力論(生産最優先論を批判する)」=2月15日、③「要害是復辟資本主義(害なるは資本主義の復辟)」=2月17日、④「緊緊抓住社会主義社会的主要矛盾(社会主義社会の主要矛盾をしっかりと掴め)」=2月18日と、2月半ばに集中しているだけでなく、奥付に「1976年2月第1版 1976年2月北京第1次印刷」と記されている点からして、大慌てで出版されたようだ。

 ここまで短時日の間に出版しなければならなかった要因は何だったのか。やはり北京の権力最上層で、周恩来の死と毛沢東の極端な衰えを背景とする激しいツバ競り合い起きていたということだろうか。それぞれの論文の主張を見ておくと、

①「目下、教育と科学技術戦線において右派による反撃との闘いが激しく展開されている。この闘いはプロレタリアとブルジョワの間の激しい階級闘争であり、プロレタリア文化大革命の継続と深化であり、我が党と国家の前途と命運とが掛かっている」。だから「思想の根源において右傾風を吹かせているヤツラの修正主義路線を徹底的に批判し、孔子批判を継続しなければならない」

②「4つの現代化と科学技術が立ち遅れとほざき、文化教育の立ち遅れに主要矛盾がある」とし、生産最優先論を掲げる勢力を北京大学から放逐し、右派との戦いを貫徹せよ。

③75年の1年を振り返ると、毛主席の革命路線と劉少奇・林彪のブルジョワ路線の死闘は続いた。北京大学の革命的な教員・学生・職員は満腔の闘志を滾らせ、毛主席と党中央の指導の下で全国民と力を合わせ、艱難辛苦を克服し、右派の反撃に勝利するのだ。

④社会主義社会の主要矛盾であるプロレタリアとブルジョワの階級対立において、修正主義が最も危険である。毛主席の革命路線を断固として守り文化大革命の成果を防衛し発展させ、プロテリア独裁を強固なものになすべきだ。

 つまり4本の論文は北京大学で反文革路線が侮り難いほどの勢いを持ちはじめる一方で、劣勢に立たされた毛沢東路線が浮き足立ってきたことを物語っているともいえそうだ。この本出版の8ヵ月後には四人組路線が破産。四人組の最後は、哀しいまでの喜劇だ。《QED》