樋泉克夫教授コラム

~川柳~ 
■《抽大烟 改革開放 頗流行》⇒《あぶく銭 持てば昔が 動き出す》

  【知道中国  548回】            一一・三・念八

     ――雲山万畳、猶ほ浅きを嫌ふ

     『回想九十年』(白川静 平凡社 2011年)

 三派全学連やら全共闘などの学生が跳梁跋扈し、全国の大学が大荒れに荒れ、身の危険を覚悟しなければ教職員も大学構内に入れなかった1960年代末、軽佻浮薄な時流に阿らない真摯で頑固な問研究=生きる姿勢に過激派も敬意を表し、その学究生活を妨害することはなかった。大学紛争の全期間を通じて自らの研究室に通い続け、常の如く研究を頑固に継続した学者が全国大学で、たった1人――こんな“伝説”の持ち主が、著者の白川だ。

 白川が終生倦むことなく続けた漢字研究は、やがて「白川文字学」と呼ばれる巨大な学問山脈を創りだし、中国古代の社会の仕組みや人々の生きる姿を生き生きと蘇らせると共に、我が『万葉集』に新しい視点を与え、そこから「東洋的な自然観、その自然に息づく生活の節度ともいうべきものを見出」すのであった。この本は、そんな白川の「私の履歴書」を巻頭に置き、江藤淳ら評論家、書家など13人との対談が収められていて、白川の学問研究=生きる姿勢の片鱗を知ることができるが、やはり圧巻は「私の履歴書」だろう。

 白川の恩師が戦時中に詠んだ「東亞の民族ここに闘へり 再びかかる戰無からしめ」に対し教員適格審査委員会は「いわゆる支那事変は、東亜に再び戦なからしむる聖戦であるとの意味をもつ」とし、彼を大学から追放処分にしたのだ。これを「これが戦争否定の歌であることは、中学生といえども容易に理解しうるであろう」と憤慨する白川は、教員適格審査委員会に象徴されるような粗製乱造で時流便乗、長いものに巻かれろ式の己を失った“戦後民主主義”なるものを、「これが戦後の民主主義であった」と嘲笑気味に退ける。

 以下、思いつくままに白川の説くところを紹介したい。
■戦後の日本を闊歩した弁証法について⇒「弁証法的な思惟は、いわば近代の西洋哲学における思弁法で、・・・ほとんど観念の遊戯に近い議論である」

■戦後の使用制限を軸とする漢字政策について⇒「漢字が生まれて以来、どのような時代にも、このように容易に、このように無原則に、このように徹底的に、全面的な変改を受けたことはない」

■戦後の教育に対し⇒「漢字が教育の妨げになり、人の思索や創造力を弱めていると考えるのは、大きな誤りである。努力しないで習得される程度のものが、すぐれた文化を生むと思うのは、横着な考え方というべきであろう」

■戦後の風潮に対し⇒「いま東洋は、あとかたもなく消え失せている。しかし東洋は、必ず回復されるであろうし、また回復されなくてはならぬ」

■自らの学問に対し⇒「私は東洋の理想を求め、その歴史的な実証を志して出発した。しかし世の中は、私と全く異なる、逆の方向に進行した。私は崩壊してゆく東洋を目前にしながら、より古く、より豊かな東洋の原像を求めて彷徨した」

■戦後の日本に対し⇒「東洋を回復する前に、まずわが国を回復しなければならない。東洋的な理念のあり方からいえば、貧しいこともまた一つの美徳であった」

 「もし私の仕事に、何らかの時代的な意味が与えられるとするならば、それは時代に逆行した、反時代的な性格のゆえに、かえってその時代のもつ倒錯の姿を、反映させたという点にあるのかも知れない」と自らを振り返る。巻末の略年譜には2004年(94歳):十一月、文化勲章を受章。2006年(96歳):十月三十日、死去。白川静・・・畏るべし。《QED》