樋泉克夫教授コラム

~川柳~ 
《爹娘説 海外各地 有財産》⇒《海外に どっさり隠す アブク銭》

  【知道中国 542回】            一一・三・仲六
 
     ――人は奇縁で結ばれているもの・・・らしい                
     『中国獄中二十五年 奇跡の日本人』(斉藤充功 学研M文庫 平成14年)
  
 「奇跡の日本人」こと平井栄三郎は浅草に生まれ、中国に渡り湖南・湖北一帯で商売をしていたが、戦争が激化すると日本軍の通訳に徴用され宣撫工作に従事する。やがて敗戦。

 「忘れもしない一九四五年の八月二十八日」、「無聊をかこっている戦友を慰めてやろうと、正規の軍服姿で収容所の鉄条網を越えて、四キロほど離れた長安の町まで一人で酒を買いに出かけた」ところ、「突然潅木の林から便衣(ゲリラ)が飛び出してき」て逮捕され臨湘県庁の前線指揮部の牢屋にぶち込まれた。極く普通なら戦犯として死刑ということになるのだが、親しくしていた村人たちが日本人ではない。中国人の袁昌亜だと庇ってくれたことから死刑を免れ釈放されるのだが、一難去って、また一難。

 日本軍が撤退した後にやってきた国民党軍は袁昌亜を漢奸、つまり中国人でありながら敵である日本軍に協力して民族を売り渡した極悪人として逮捕・投獄したのだ。今度こそ死刑は免れない。だが、彼は獄中で東京高等工業(現在の東京工大)を卒業した唐炳初に助けられる。

 「唐さんは(中略)日本語がうまく、それで余計に親しくなった。孫文とも交流があり、当時湖南省政府の顧問のような仕事をしていて有名人であった。監獄に入ってきたのは息子を逃亡させた罪だった。息子は長沙市長の要職にあり、共産党の情報工作員でもあった。終戦時、国民党にその素性がばれ手配されていることをいちはやく知り、香港に逃亡してしまったため、父親が身代わりになったのである」。
 ここで平井の話が、突如として我が人生と交錯してくる。じつは70年代前半に暮らした香港でアルバイトをしていた日本語学校の唐校長先生が、どうやら「香港に逃亡し」た「息子」らしい。当時、唐先生をよく知る人が「共産党の連絡員らしいよ」と囁いていたが、日頃の唐先生の言動からして、とてもそうとは思えなかった。

 確かに日本の陸軍士官学校に留学し格調高い日本語を話す唐先生は日本軍占領時には長沙市長を経験し、国共内戦が勃発した1946年前後の混乱期に香港に逃れたと聞いた。大好物はビールで、定量を超過しご機嫌になると、時に京劇の一節を唱い、時に陸士時代に付き合っていた「李君」との思い出も。李君とは朝鮮李王朝最後の血を引く垠殿下である。

 「地主であった唐炳初」には、他にも共産党にまつわることがある。彼は「平江に屋敷を持っていて、ある料理人を使っていた。その料理人が実は人民解放軍が紅軍として旗揚げした江西省井岡山で毛沢東や朱徳と連絡をとっていた共産党の幹部であった」。この「ある料理人」こそ、49年に第三野戦軍司令官兼政治委員として南京、上海攻略の指揮を執り、後に初代上海市長を経て外交部長を務め、文革で失脚した陳毅なのだ。

 やがて平井は日本人と認められ、1978年5月に日本に帰国することになるのだが、31年ぶりに会った日本人が、「在中国日本大使館の槇田一等書記官」だったそうだ。

 日本に戻った平井は中国で身につけた技術を生かし漢方医として、「日本で最も古くから顕微鏡を扱う医院として発足した『東京顕微鏡院』という、総合病院で」働くことになる。 

 一時、体調不良に悩まされていたことから義弟の紹介で東京顕微鏡院へ通院したが、鍼灸治療を施してくれた目の前の80歳過ぎの老先生が、「奇跡の日本人」だったのだ。《QED》