樋泉克夫教授コラム

~川柳~ 
《有困難 応該学習 『毛語録』》⇒《難しい ならば学ぼう 『毛語録』》

  【知道中国532回】        一一・二・念四

    ――文革は人々の心をささくれ立たせ、大地を穿り返した
    『文化大革命期間出土文物』(人民出版社 1972年)
  
 この本は66年8月の文革開始から72年まで6年間に全国で進められた遺跡発掘調査の初歩的報告書である。年代的には春秋戦国の時代から元まで、地域では新疆のトルファンやロシアとの国境のウスリー江流域まで。どの遺跡も人民解放軍やら「当該地の革命大衆の通報」がきっかけとなって発掘・調査が進められたとのことだ。あの全国を大混乱に巻き込んだ文革の時代に、よくぞまあ落ち着いてノンキに発掘作業なんぞ出来たものだと首を傾げたくなるが、そこはそれ、「毛主席の革命路線」という“伝家の宝刀”で万事解決。

 要するに、「毛主席の革命路線の導きの下、広範なる労働者・農民・兵士大衆の支持と助力を得て、我国の文物・考古工作者はプロレタリア文化大革命の期間、大規模な文物保護と発掘工作、多くの文化遺跡と古代の墓域の発掘と整理を推し進めた。これら歴史的文物は、我国歴代の政治、経済、文化、軍事、対外友好交流情況などの研究と理解において、重要な科学的価値を実際に備えている」ということです。

 確かに、あの時代、「毛主席の革命路線の導きの下、広範なる労働者・農民・兵士大衆の支持と助力を得」さえすれば、出来ないことはなかったわけだ。
 ところで不思議なのが、なぜ全土が混乱の極に達していたであろう時代に、かくも多くの貴重な考古文物の発掘がなされたのか。確かに古来、中国では権力者や金持の壮大な墓を掘り起こして副葬された金銀財宝を盗み取る盗掘が常態化していたが、まさか「毛主席の革命路線の導きの下、広範なる労働者・農民・兵士大衆の支持と助力を得」た国家プロジェクト級の盗掘というわけでもないだろう。いかに「百戦百勝」と形容され讃えられた毛沢東思想でも、まさか、そこまではしないものと信じたい。さらにさらに『毛主席語録』を活学活用しての盗掘とは、とても思えそうにない。いや思いたくもないが・・・。

 そこで考えられるのが、人民解放軍やら「当該地の革命大衆の通報」で発掘がなされたということに加え、発掘場所が新疆のトルファンやら北辺のウスリー江流域、北京など軍事的な要衝だという点だ。つまり一連の遺跡発掘のキッカケとなったのが、地下軍事施設やら防空壕建設ではなかったのか。じつは60年にソ連と決別する一方、62年頃からアメリカのヴェトナム戦争への介入が激化したことで、アメリカとソ連の2つの「帝国主義」による南北からの挟撃を恐れた毛沢東は、鉱工業や軍事施設を内陸深奥部に移す「三線建設」と称する大プロジェクトに慌ただしく着手するが、これが一種の思いつきに過ぎず、文革の渦中で失速・頓挫してしまう。一連の考古文物発見の陰に三線建設あり、である。

 それにしても合点がいかないのが、「四旧打破」を掲げ、旧い思想・文化・風習・習慣を徹底して破壊することを進めて文革期であったにもかかわらず、この本にみられるように古い文物が民族の貴重な遺産として讃えられている点である。それもこれも、「毛主席の革命路線の導きの下、広範なる労働者・農民・兵士大衆の支持と助力を得」れば、全てチャラとなってしまうのか。方便といえば方便だが、デタラメが過ぎようというもの。

 いまや「大後退の10年」と蔑称される文革だが、プラス効果を挙げるなら、この本が示しているように多くの考古文物の発見だろう。だが現在、このような考古文物が発見されたら・・・間違いなく、トットと、闇から闇に、超高値で売り飛ばされるはずだ。《QED》