~川柳~ 
《人民皮 百分之百 好辛苦》⇒《人民は いつの時代も バカをみる》

  【知道中国 529回】        一一・二・仲八

     ――超ブンカク的な寝言・戯言・世迷言・・・

     『文化大革命の研究』(安藤彦太郎編 亜紀書房 1968年)

 「あとがき」によれば、「早稲田大学社会科学研究所に数年前から東アジア研究会というのが設置され、中華人民共和国および朝鮮人民民主主義共和国の社会主義建設の比較研究をおこなってきた」が、「一九六六年夏ごろから研究の重点を漸次中国のプロレタリア文化大革命の解明にうつし」たそうだ。その結果、この本は「研究途上におけるいわば中間報告」として出版されたわけだが、「アンピコ」こと安藤彦太郎を編者に大村益夫、岸(安藤)陽子、横山宏、新島淳良と総勢5人の過激な「文革礼賛派」が集っているわけだから、内容は推して知るべし。いまになって振り返れば、いや当時ですら既に噴飯モノだって。

 とはいうが当時の日本を代表する毛沢東思想原理主義者で文革礼賛派の面々が、どんな主張を展開していたのか。改めて振り返ってみたい気がする。コワいのも見たさ、です。
 先ず安藤は「中国におけるプロレタリア文化大革命は、いまなお進行中であるが、政治・思想・文化その他の面で幾多のあたらしい問題を提起し」ている。日本では「否定的評価はかなり広範に存在しているようにみうけられる」。その「基盤として、つぎの三点がかんがえられる」とし、「その第一点は、既成のものにたいする変革の行為は、変革の立場にたたないものにとっては憎悪または恐怖すべきものとしてとられる、ということ」。「第二点として、社会主義というものにたいする既成概念をあげなくてはならない」。ここでいう既成概念とは、「従来、人民が権力をにぎった社会主義国では、基本的には階級矛盾は解消して革命の必要はなくなり、したがって革命はありうべからざるものと信じられていた」ことを指す。「第三点として、中国にたいする軽視、あるいは中国を特殊な後進国とみる見かたをあげなくてはならない」
 かくして文革は「毛沢東一派による策動による権力闘争」ではなく、「社会主義についてのわれわれの既成観念に突きつけられた、するどい刃である。そのようなものとして受けとったとき、中国のプロレタリア文化大革命は、日本のわれわれのものとなる」そうデス。

 「中国における『利潤』論争」を論じた横山によれば、「利潤は企業を評定するもっとも重要な総合指標」といった考えは資本主義への道を進むものであり、こういった考えを批判してこそ、「大衆の主観的能動性を発揮させ、これまでの生産関係をうちやぶり、生産の大躍進をかちとること」ができる。文革によって「生みだされた『革命に力を入れ生産を促す』という政治第一の革命方式が、中国の生産力を急速に上昇させる局面をつくりだ」し、利潤などという反社会主義的考えを根絶やしすることが可能となる。あんたはエライ。

 安藤と共に当時の日本の毛沢東思想原理主義者を代表する新島は、「毛沢東の理論によってマルクス主義は現代のプロレタリアートの世界観、プロレタリア革命の科学的理論として再生した」と、声高らかに文革礼賛の歌を唱いあげた。トンデモない「中間報告」だ。

 ――彼らの主張を改めて読み返すと、どうやら「毛沢東一派」が押さえた北京の文革派メディアが垂れ流していた奇想天外でデタラメな屁理屈を日本語に置き換えていただけ。つまり、この本は深刻ぶったノー天気ドモの戯言の集大成にすぎず、敢えていわせてもらうなら掛け値なしで文革版トンデモ本の代表。だが、このトンデモ本は凡百のそれと同じではない。日本人による中国拝跪の悪しき標本として、永遠に保存すべきだろう。《QED》