~川柳~ 
《我去買 美国飛機 没問題》⇒《アメリカの 頬札束で 張り倒せ》

  【知道中国 526回】        一一・二・仲二
    
    ――死、死、死、死・・・なおも多くの生がある

    『死雅』(鮑延毅編著 中国大百科全書出版社 2007年)

 この本は20数年の歳月をかけ、『論語』をはじめとする古典、『史記』以来の歴史書、小説、随筆、詩文、辞典、字書、地方志、仏教経典に加え最近の新聞、雑誌、学術書から広告の類まで、凡そ印刷物という印刷物に目を通し、中国語で表現された「死」にかかわることばを拾い集めた辞書である。

 横15㎝、縦21㎝、厚さ5㎝で、重さは1.1kg強。使われている漢字は150万5千字余で、収録語彙数は1万1千項目超。かくも「死」を追い求めた編著者の執念もさることながら、死をこれほどまでに多彩なことばに置き換えることのできる中国人の表現力に驚かされると同時に、それほどまでに多種多様な貌の死を積み重ねてきた中国社会の姿に改めて衝撃を覚える。そこで、なにはともあれ実際に『死雅』を引いてみることにしたい。

 たとえば「不」の文字を使って表わされる項目を引いてみると、全部で181項目が収録されている。面白そうなのを拾うと、「不得善終」は「“凶死”或いは“非命に死す”と同義」とあり、いくつかの古典小説から用例が引かれている。「不得善終」の次が「不着墳墓」で、解説には「異土で死に祖先の墳墓に入ることができないこと」とある。「不超昇」は「死して地獄に帰すこと。永遠に往生の日を超えることがない」というから、霊魂は当てどなく彷徨い、永遠に浮かばれない可哀そうな死ということになるのか。「不蒙過庭之訓」は「父親の教えを聞かない。父親の死を婉曲に表現」とある。

 以上は古い用例だが、新しいものも多く収録されている。その典型が「見馬克思」だろうか。馬(マー)克(クー)思(スー)の漢字音を重ねれば、馬克思(マークースー)。つまりマルクス。「見」は「見(まみ)える」の意味。つまり「見馬克思」はマルクスに見えるということで、死を意味することになる。解説には「マルクス主義の信奉者が死を諧謔したもの。達観した表現」とある。確かに「達観した表現だ」が、日本人はここまで「達観」できそうにない。骨の髄までマルキストだと自認しても、「俺の体はもうガタガタだ。もうそろそろマルクスに見える準備をしないことには・・・」などと口にしないだろうに。

 マルクスを死と結びつける表現に最初に接したのは文革直前だっただろうか。訪中したアメリカ人ジャーナリストのエドガー・スノーとの会見の席で、毛沢東が「もうすぐマルクスに会いに行く」と語ったことが報じられた。それに続いて毛沢東は「地球上における人間の条件は、このうえなく急速に変わりつつある。いまから千年もたったらマルクスもエンゲルスも、またレーニンさえも、きっとバカげてみえることだろうと」と呟く。

 1976年秋、毛沢東は「マルクスに会いに行」ってしまった。それから2年数ヶ月後、鄧小平は毛沢東が進めてきた「自力更生」路線をきれいさっぱり清算し、対外開放・経済最優先の路線に大転換する。毛沢東路線の象徴だった人民公社解体で農村には膨大な労働力が滞留するが、彼らを外国企業に超低廉賃金で提供することで一気に世界の工場へ。中国は世界の巨大市場となり世界経済を牽引する。さて、カネ持ちを守る政党に変質した共産党が「マルクスに会いに行く」日は・・・自由天知道(天は自ずから知りたもう)。それにしても今日この頃の中国は、「千年もた」たずとも「バカげてみえ」ませんかネエ。《QED》