~川柳~ 
《不管誰 離開大陸 走出去》⇒《さあみんな とにかく中国 飛び出そう》

  【知道中国 521回】       一一・二・初二

      ――そうか、やはり、あれは伝統だったんだ

      『朱子伝』(三浦國雄 平凡社ライブラリー 2010年)

 かの朱子学の始祖であり、海を渡った我が日本においては江戸期以降の儒学に多大な影響を与えた朱子の詳細な評伝である。

 生涯にわたって師を篤く慕う一方で、論敵に対しては一切の妥協を許さずに徹底して戦いを挑む。静謐と憤怒とが入り混じった人生のなかで、朱子は友誼を重んじ、弟子を慈しみ、愛児の死を嘆き悲しみ、いつ果てるとも知れぬ病気との闘いに苦しむ――著者は真理を探究して敢えて苛烈な人生を送った朱子を中国学術界史上の大巨人として捉えるだけでなく、12世紀半ばの混迷続く南宋の時代に生きた1人の人間として描こうとする。

 南宋の学術や学者の世界にも、ましてや朱子の学問にも門外漢であればこそ、著者の記述を素直に読み進み納得するしかないのだが、次の主張には大いに考えさせられた。些か長文だが引用してみたい。

 「いったい官僚=(広義での)学者であるのを原則とする中国では、思想の展開は官界の状況と分かちがたく結びついていた。科挙が制度化されてからは、いっそうその傾向が強い。従って、思想的対立はしばしば政治的対立に転化し、互いに党を作って主導権争いを演じた。いわゆる党争である。ところで、この官界というところは利害が複雑に絡みあった特殊な社会、いってもれば欲望の坩堝のような魔界であって、思想的対立は必ずしもそのままには反映されず、党争が長びくにつれて思想なき泥試合に堕してゆくのが常であった。朱子があれほどたびたび仕官を辞退したのは単なるポーズではなく、ひとつは中央政界の複雑怪奇さを遠雷のように予感していたからであろう。

 「北宋の滅亡とともに、新法党・旧法党の熾烈な党争いは一応終熄する。北宋を滅ぼしたのは新法党だという反省が起こり、旧法党の名誉回復が行われた。

 「しかしながら、党争それ自体が終熄を告げたわけではない。新旧両党の党争は南宋に入ると、形を変えて対金政策において再燃する」

 中国では「官僚=(広義での)学者であるのを原則」とし、「思想の展開は官界の状況と分かちがたく結びついていた」との指摘は、毛沢東時代の思想闘争と「分かちがたく結びついていた」権力闘争を想起させるに十分な指摘といえそうだ。

 たとえば毛沢東が進める大躍進という急進的な社会主義化が正しいのか。それとも大躍進の後遺症から脱すべく、劉少奇と鄧小平とが進めた限定的な自由化策が時宜に合っていたのか。北方には国境を侵さんと虎視眈々と狙っている社会帝国主義のソ連、南方にはヴェトナムで近代的大兵力を展開するアメリカ帝国主義――2つの帝国主義大国に挟まれながら生き残るためには、アメリカと国交を結ぶのが得策なのか。社会帝国主義の軍門に下りソ連とヨリを戻すのが正道なのか。林彪は密かに孔子を信奉していたか否か。既に死んだが、毛の言ったこと、やったことの全ては正しいとして毛沢東路線を堅持すべきか(華国鋒派)。それとも一気に対外開放して外国の資本と技術を呼び込むべきか(鄧小平派)。

 現在の北京の政界は、朱子の時代でいえば官界となろうか。であればこそ「利害が複雑に絡みあった特殊な社会」で「欲望の坩堝のような魔界」であり、かくして「思想的対立は」「思想なき泥試合に堕してゆく」情況は伝統に則っているということ。至極納得。《QED》