【知道中国 516回】       一一・一・念三 
   

     ――何を信じてよいのやら。負けます・・・ホント

     『耍聡明的中国人』(石之軒 北方婦女児童出版社 2009年)

 イギリス人はウソつきである。そのイギリス人が「イギリス人はウソつきだ」といったとして、彼がいったことはウソかマコトか。そこで、次の発言はどうだろう。ある中国人が「自分は聡明だと思い込んでいる人は、とどのつまりロクなことはない。この世で最も聡明な人とは、最も篤実な人のことである。それというのも情に篤く生真面目であればこそ、事実と歴史の試練に耐えることができるのだ」と。さて、これは信じられるかどうか。

 書名の最初に置かれた文字を間違えないでもらいたい。「要」ではなく「耍」。つまり書名は「聡明を弄ぶ中国人」という意味だ。

 著者は「聡明な人は手段を選ばないし、身勝手極まりなく無原則で他人と競争する。規則をしっかりと守る篤実な人に較べれば当然のように有利だし、成功を納め易いものだ。だが、これは、ちっぽけな個人としての話だ。大きく民族の立場からか考えた場合、災禍を生みやすい。ある民族の凡てがここでいうように聡明であるなら、その民族はたちどころに淘汰されてしまうだろう」といい、淘汰されるに至る判り易い理由を挙げる。

 聡明な人は手段を選ばないから、ビジネスを進めるうえでの信用がない。出来上がった工業製品はニセモノで品質は劣悪。政府は公正・公平を旨としない。市場に出回るのは有毒牛乳に汚染米。交通事故は絶えることなく、交通規則は守られないから道路は極度に渋滞したまま。友人の間を繋ぐのはウソッパチの危ない話で、うっかり信用なんぞできるわけがない。人と人の間に真心も愛情もみられない。誰もが腹に一物で、疑心暗鬼。互いに誰が聡明で、誰がより詭道(セコイ)かを競う。かくして著者は、「ある民族が内側からこう変化したとして、こんな民族に前途はあるのだろうか。他の民族と競争できるとでもいうのか」と自問し、疑問を投げかける。

 「規則を破ることを特徴とし、己が勝利せんがためにどのような手段を講じても有利な立場に立とうという聡明とは、個人的にはこのうえない智慧というものだろう。だが、民族という立場からいうなら、そのような聡明は民族の精神、道徳、身心の健全さの全てを蝕むものだ。だから、このような聡明は“小賢しき聡明”であり、真の智慧ではない。 

 「真の智慧とは、民族が生存して行くうえで必要欠くべからざる理性だ。それが、その民族固有の哲学、民族内部の調和に現れる。それが公共の規則に対する個々人の確固たる信頼、遵守に結実する。智慧ある民族は、人々は互いに過度に干渉することなく淡い交わりを保ち、腹蔵なく、そして率直だ。人々は多くの精力を他人との戦いや競争に浪費することなく、猜疑心を発揮することも、要らぬ摩擦が起きることもない。誰もが多くの時間を創造性ある仕事に費やし、ニセモノ作りに時間を費やすことなく、人としての真・善・美を追い求める」

 そして著者は、「13億の中国人は凡て聡明とはいうが、本当に聡明な人は何人だろうか」と、疑問を投げかけることを忘れない。
 さて冒頭に挙げた「自分は・・・」は周恩来の発言だそうな。彼もまた「聡明な中国人」で、そういえば著者もまた中国人だった。著者の主張を真に聡明な中国人の深刻な自己反省などと感心してしまうのは、やはり早トチリ。お人好が過ぎるように思うが・・・。  《QED》