【知道中国 514回】       一一・一・仲九

      ――“黄昏の北京”は・・・汚なく臭かった

     『北京追想 城壁ありしこそ』(臼井武夫 東方書店 1981年)

 いま手元に「旧北京市街地図」と名付けられた旧い北京の地図がある。いったい、いつ頃に作られたものか不明だが、故宮に向かって右手、現在の地名でいえば東城区に松屋ホテル、カフエー陽春、サクラ菓子、バー上海、シトロン安川商店、富士屋ホテル、カフエー紅姫、三井洋行、丸石タクシー、日本人基督協会、大和看護婦会、ハトヤ菓子店などが記されているところから、昭和初期に日本人が作った地図だろう。

 著者は「昭和十五年秋初めて北京の土を踏み、敗戦後の二十一年春まで、あしかけ七箇年をかの地で過ごし」ている。「着任と共にこの古都の持つ不思議な魅力の虜になり、古書古地図を渉猟に努める外、業務の間寸暇を割いて北京と、その周辺を歩いて回った」。それから30数年後、「私の在留当時の古都の姿を、記憶と僅かの記録と、一部参考文献のたすけによって描き残して見たいと思」い立ったことで実現したのが、この本だ。そこで、「旧北京市街地図」を手元に置きながら読み進むと、燕都と呼ばれた盛時は既に遠くに去った北京の黄昏た佇まいが浮かび上がってくる。

 著者は瑠璃の甍の故宮から懐旧の旅をはじめ、北京を北京たらしめてきた歴史的建造物を愛おしく語るが、やはり面白いのは「人」だ。市井に生きる中国庶民だ。

 現在でいえばタクシーに当たる三輪児(三輪自転車)と洋車(人力車)とを較べて、「三輪児には詩情も風情もなかった」。「北京は洋車の適しい街であった。三輪児の様な文明の利器を導入するのは間違いであった」と不満を漏らした後、

 「三輪児を私が嫌う理由は未だあるのである。洋車の場合、拉車的のかむ手ばなは決して高い車上の私に届くことはなかったけれど、三輪児の場合、彼らの手ばなは低く座っている乗客の私にまでとんで来るのである。その上、本書に書くのは忍びない事だが省筆するわけには行かぬ大切なことだから記して置くが、それは拉車的がしばしば、大変に臭い屁を放つことである。これは直接的に直後に座る乗客の鼻を襲う」とか。ここに記された「拉車的」とは人力車夫であり、三輪自転車をこぐ車夫のことだ。

 その悪臭にいたたまれなくなった著者は、かくて「白状するが、私はあまりの臭さに、足を挙げて犯人の尻を蹴った」。そして「天地神明にかけて誓うが、親愛なる中国人に対し暴力など揮ったことはないのだが、尻を蹴上げる様な反射運動は少なくとも二度はした様な気がする」。しかし、「その反応であるが、全然なしであった。蚊がとまったほどにも感じなかったに違いない。秋天の下を、悠々とペダルを踏んでいること前と変わりはなかったのである」

 カフエー陽春、あるいは富士屋ホテルに向かおうと拾った三輪児で、前方から不意に飛んできた三輪自転車車夫の手ばなに一張羅を汚され、あるいは「大変に臭い屁」に鼻がヒン曲がる思いをした日本人は少なくなかっただろう。ならば彼ら、彼女らは「あまりの臭さに、足を挙げて犯人の尻を蹴った」はずだ。そして、「その反応であるが、全然なしであった。蚊がとまったほどにも感じなかったに違いない。秋天の下を、悠々とペダルを踏んでいること前と変わりはなかったのである」・・・半ば呆れ返ったのではなかろうか。

 手ばな、「大変に臭い屁」もまた北京。ならば超近代都市に変貌した北京では如何。  《QED》