【知道中国 490回】        一〇・十二・初二

     ――すべての人民諸君、「実用主義哲学」でショーバイだ

     『現代資産階級的実用主義哲学』(陳元暉 上海人民出版社 1973年)

 ある「事物」の概念を完全に解るためには、それが実際にどのような効果を持つかだけを考えればよい。実際上の効果の有無が、その事物の概念を決定する。だから実際上の効果がなかったなら、その事物は存在しないということだ――19世紀末にアメリカで生まれ20世紀初頭に花開いた実用主義哲学(=プラグマティズム)を、著者はこのように規定する。だから、「この“原理”は概念を客観的事物の反映とする唯物主義の観点と明らかに対立」し、同時に「実用主義は主観唯心主義のなかの一派だ」ということになる。

 哲学を論ずるだけに、用語も文体も晦渋極まりなく頭を捻ることばかり。だが内容以上に頭を捻らざるをえなかったのが巻頭に置かれていていいはずの『毛主席語録』の一節だけでなく、批林の「ひ」の字も、批孔の「ひ」の字も見当たらない。そのうえ本文を読んでも、著者の主張を補強するためにマルクスやエンゲルスの著作からの引用は多く見られるが、毛沢東のそれは極めて限定的という点だ。この本が出版された73年といえば、毛沢東に刃向かう勢力は存在せず、批林批孔運動は全国で激しく展開されていたはず。つまり、体裁と内容が当時の政治情況と懸け離れているということは、この本が毛沢東ら当時の共産党主流の考えとは一線を画す立場から出版されたと考えられないこともないのだ。

 じつは、この本は再版で、「個別の箇所を修正し、マルクス・レーニン主義古典著作からの引用に関しては新たな版本に基づいて修正を加えた」そうだが、思い起こせば初版出版の63年は毛沢東の権力が大後退し、替わって劉少奇と鄧小平の現実路線が政治の前面に躍り出た時期だった。58年、毛沢東は人民公社を全国に広める一方で鉄鋼大増産を進めた。いわば現在の北朝鮮の親・子・孫の三代将軍サマ世襲王朝が目指す「強盛大国」のそれに近い。だが現実を無視した政治的熱狂だけで世の中が動くわけがない。4000万ともいわれる餓死者すら生んでしまった。そこで精神第一主義の毛沢東に替わって、一定の私有財産を認める政策を掲げた劉少奇と鄧小平が政柄を握り、疲弊した経済を立て直した、国民的支持を集めることとなる。その結果、毛沢東とその周辺に劉少奇らへ“嫉妬心”の火が点いてメラメラを燃え広がり、やがて文革の劫火となって中国全土を焼け焦がしてしまう。

 つまり初版出版当時、毛沢東が掲げた大躍進政策には「実際上の効果がな」く、「その事物は存在しないということ」を、劉少奇と鄧小平の現実路線が人民の前に明らかにしまったということ。そんな時代背景と政治的因縁の絡んだ本を毛沢東の権力絶頂期に再販しようというのだから、それなりの政治的意図が込められていると看做すべきだろう。

 延々と難解な哲学論議が続くが、「物質と意識の相互関係といったような哲学上の根本問題は、まったくもって無意味だと、多くの実用主義者は公然と口にする。ブルジョワ階級(中略)からみれば、唯物主義なのか唯心主義かなどということを理解・弁別する必要はまったくない。人びとは同じように商売し金儲けができるのだ」の一節にはビックリ。

 ここで敢えて想像を逞しくするなら、“毛沢東時代の黄昏”を体感する一方で来るべき鄧小平時代を先取りしようとした勢力が、この本を出版させたということか。つまり熱狂的な政治の時代は程なく終焉を迎えざるをえない。だから皆さん、その時に備えましょう。次に訪れるのは経済の時代。「人びとは同じように商売し金儲けができる」んです。

 「人びとは同じように商売し金儲けができる」・・・毛沢東思想への“訣別宣言”だ。 《QED》