【知道中国 489回】       一〇・十一・三〇

     ――あの頃、誰もが全身全霊で誠心誠意だった・・・まさか

     『心紅似火』(上海港工人業余写作組編 上海人民出版社 1971年)

 時は文革渦中のある年の7月。上海某埠頭案内所で旅客案内係を勤める主人公の魏心剛は私心を捨て、奇跡的と思えるほどに旅客のために働く。まさに為人民服務の“権化”だ。

 行く先の住所を書いたメモを失くし途方にくれる老婆と孫の2人連れを見れば、まさに天啓のように、耳元から「べチューン同志は自らのことなど寸毫も考えず専ら他人に尽くす精神をもって、仕事に対する極端なまでの責任感、同志と人民とに対する熱情を表現した」との「毛主席の暖かく親切な声が聞こえて」くる。毛沢東信仰極まれり、である。べチューンとは共産党革命のために誠心誠意尽くしたとされ、文革当時、為人民服務の象徴として全人民が学習すべき模範だと、毛沢東が極端に持ち上げたカナダ人医師だ。

 ある列車に乗っているはずの妻を捜してくれとの長距離電話を受け、出発間際の列車の通路を走り回るが見つからない。心は焦るばかりだが、今度は「事に当たっては細心であれ。大雑把は失敗の元だ」との毛沢東の声、いや“お告げ“。かくて落ち着いて周囲を観察すると、それらしい女性。事の仔細を告げ、荷物を持って急いで列車から降りる。その刹那、汽車は動き出す。すると「我われに必要なのは熱烈にして冷静な心であり、緊張しつつ秩序だった仕事ぶりである」との毛沢東の教えが頭の中に浮かんでくるというのだ。

 この“毛沢東思想的聖人君子物語”は、旅客や同僚の輪の中で主人公が、「五湖四海(せかいかくち)からやってきた我々は、革命という共同の目的のために手を携えて一緒に進もうではないか・・・」との『毛主席語録』の一節を朗々と読み上げるところで幕となる。

 ――かくも滑稽なストーリーはともかく、主人公の職場の上司を描いた挿画が気になった。絵の中の上司の後ろの壁に、「大海渡るには舵取りに頼る。革命は毛沢東思想に頼る 林彪 一九六七年十一月廿九日」との林彪の揮毫が張られているからだ。

 この本の出版は1971年2月で、同年6月に香港で購入した。ここで当時の北京最上層における権力闘争を、中共中央弁公室が72年7月に発表した『粉砕林彪反党集団反革命政変的闘争(材料之三)』(貴州省革命委員会弁公室 1972年7月)に基づいて追ってみよう。

 失脚した劉少奇が押さえていた国家主席ポストの取り扱いをめぐって廃止を主張する毛沢東に対し、公式に毛沢東の後継者とされた林彪だったが異を唱え存続を主張。さらに毛沢東を天才とする林彪系を毛沢東が批判する。かくて71年1月、毛沢東は北京軍区を改組し、林彪の権力基盤の第4野軍系を編成変えし、その力を削ぐ。一連の毛沢東の動きに危機感を抱いた林彪系は林彪長男の林立果を中心に秘密裏に空軍内に「連合艦隊」なる林彪親衛隊を組織化。翌3月には「五七一工程紀要」と名づけたクーデター計画を作成し、万一の場合には毛沢東暗殺による権力奪取を計画した。かくて9月、毛沢東暗殺に失敗した林彪はソ連への亡命を企てたものの、乗っていたジェット機とともにモンゴル領内に墜死。

 つまり林彪が毛沢東の後継であることを伝えていたこの本が出版される1ヶ月前、すでに林彪の命運は尽きていたにもかかわらず、出版された。香港の中国系書店でこの本を買った頃には、林彪一派は起死回生の生き残り策を求め、考えられる限りの手段を講じていた。林彪事件発生後の中国国内で、この本がどのように扱われたのか。興味深々。それにしても当時、主人公のような誠心誠意の人が実在する・・・わけないと思いマス。《QED》