【知道中国 476回】        一〇・十一・初六

      ――超自己チューで“無原則という大原則”

      『邏輯語法修辞漫談』(《邏輯語法修辞漫談》編写組 上海教育出版社 1978年)

 78年12月に開かれた共産党第十一期三中全会において、「英明なる領袖」だった筈の華国鋒は鄧小平によって党の実権を事実上剥奪され、毛沢東時代は終焉を迎え、全国民に向かって「兎にも角にもネズミを捕まえる猫となれ」と叱咤激励する鄧小平の時代へと、中国の路線は大転換をみせたわけだ。この本は華国鋒と鄧小平の双方が鎬を削って権力闘争を展開していたであろう時期、いわば“毛沢東時代の黄昏”に出版されている。

 おそらく当時は物資が極端に不足していたのではなかろうか。というのも、文革時代の同種の本の多くに表面が滑らかな白い上質紙が使われていたのに対し、この本はザラ紙に近いからだ。紙質だけからいうなら、50年代半ばを思わせる。

 冒頭に掲げられた「いくつかの例から、なぜ邏輯(ロジック)、語法(文法)、修辞を学ばねばならないか」と題された文章には、「いうまでもなく邏輯、語法、修辞に関する問題は、思想内容と密接な関係にある。だから、この種の知識を的確に把握することは著作のためだけではなく、文章を推敲するためでもあるのだ。文章を読む場合、こういった知識で文意を分析すれば、思想内容はより明確に理解できるのだ。もちろん反面教材を目にした時には誤りを見つけ、敵が弄ぼうとする詭弁を明らかにすることも出来るわけだ。修正主義者は自分たちの黒貨(怪しげな品物)を売りつけようとし、とどのつまりは文字や言葉を飾って騙そうとする。時に悪意を包み隠し遠回しに語り、時に耳に心地良い言葉を羅列しながらウソをマコトと言い逃れようとする。ヤツラの真の狙いを見定めるには、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想の顕微鏡と望遠鏡に拠るべきである。ヤツラの変幻自在のワザを見破るには、時には邏輯、語法、修辞に関する知識を動員しなければならない」とある。以上が、この本を出版した趣旨ということになりそうだ。

 つまり時に口角泡を飛ばし、時に諄々と、時に居丈高に、時に一方的に自らの主張を訴える敵の言い分を「マルクス・レーニン主義と毛沢東思想の顕微鏡と望遠鏡」を使って見定め見破り、「邏輯、語法、修辞に関する知識を動員」して、そのウソを暴こうというのだ。

 53例を挙げて「邏輯、語法、修辞に関する知識」を微細に微に解説しているが、たとえば「二十二 『フルシチョフより、よりフルシチョフだ』から名詞と副詞を語る」である。

 「ソ連修正主義叛徒集団の頭目であるブレジネフはフルシチョフより、よりフルシチョフだ」と表現するが、フルシチョフは「誰でも知っているように、20年以上にわたってソ連共産党内に隠れていたブルジョワ階級の野心家、陰謀家だった。スターリン死後・・・反革命クーデターを敢行してソ連の党・政・軍の大権を詐取し、ソ連の面貌を変えてしまった。ブレジネフが政権に就きフルシチョフの衣鉢を継承し、国内ではファッショ独裁を行い、国際的には覇権を唱える。その野心は狂ったように止まるところを知らず、陰謀の毒はフルシチョフの比ではない」。そこで「よりフルシチョフだ」という短い修辞ながら「より陰険で、より狡猾で、より反動的である様が生き生きと表現され、全体情況を的確に把握している」となる。

 この例に倣えば、鄧小平、江沢民、胡錦濤は「ブレジネフより、よりブレジネフ」、いや文革式邏輯では「劉少奇より、より劉少奇」。ならば21世紀初頭の中華人民共和国は「アメリカ帝国主義よりソ連社会帝国主義より、より帝国主義的だ」と表現すべきだろう  《QED》