【知道中国 469回】       一〇・十・念三

     ――ヴェトナムの戦場は、ボクらの学校だったんダイ

     『越南小戦士 阿亮』(姜維 人民美術出版社 1972年)

 南ヴェトナムで生まれ育った13歳の阿亮クンにすれば、マクナマラ戦略によって大量投入されたアメリカ軍は憎悪を込めて殲滅すべき敵でしかなかった。それというのも阿亮クンの村を武力で占拠したアメリカ軍は、民族解放のために決死の戦いを続ける兵士を殺し、北ヴェトナム侵略のための飛行場を建設すべく豊かな田畑を焼き払ってしまったからだ。

 アメリカ兵の横暴を阻止しようとした父親は拉致されて行方知れず。母親は激しく打ちのめされ虫の息。だが阿亮クンは涙を見せない。怒りの炎は小さな胸に燃え滾る。そして英雄的に反米救国の戦いを続ける南ヴェトナム民族解放戦線のゲリラ闘争に参加し、小さいながらも一人前の兵士としての訓練を黙々とこなす。勇敢にも阿亮クンは、「来るなら来い。小汚いアメリカ猿の侵略野郎ドモ」と、手榴弾でアメリカ兵に立ち向かった。

 ある日、隊長から「農民の子供に変装し、敵の飛行場を探るべし」と、重要な斥候の任務が下される。ジャングルを分け入って進む阿亮クンの2つの眼は、獲物を探す鷹よりも鋭く光る。と、なにを認めたのか、阿亮クンは大木にスルスルとよじ登り、鳥の鳴き真似をして叫んだ。その合図を耳にした勇敢な兵士たちは兵器を手に強行前進し、ジャングルの端に大砲やら迫撃砲を据え付ける。

 「テーッ」と隊長。米軍の飛行場めがけて大砲や迫撃砲が民族の怒りを込めて一斉に“正義の火”を噴く。駐機している戦闘機は破壊され、アメリカ兵は「お父さん、お母さん、助けて」と泣き叫び、逃げ惑う。本当は彼らは弱虫だったんだ。

 逃走を図ろうと次々に離陸するヘリコプターに照準を合わせ、阿亮クンは手にしたライフルの引き金を引く。バキューン、バキューン。ヘリコプターは次々に撃墜され、地上に衝突して炎上。「助けて、許して」とアメリカ兵は銃を差し出し命乞い。情けない奴らだ。

 アメリカ軍基地に囚われていた人々は解放された。嬉しいことに、その中に、阿亮クンの父親も。誰もが口々に、「阿亮、偉いぞ。立派なもんだ。スゴイ働きだ」

 ヴェトナム戦争に際し、「ヴェトナム人民の大後方」と自らを位置付けた中国は1965年から73年の間、「アメリカ帝国主義と闘うヴェトナム人民」のために、数百万丁の銃、数万門の大砲に加え、軍事施設建設、陣地構築、飛行場・鉄道・道路の修理と建設などを含む総額で16億ドルにも及ぶ軍事援助を行ったといわれる。もちろん、軍事要員も。一部に実戦部隊を派遣し、防空戦闘や掃海作業に当たらせていたようだ。ならば、ヴェトナム側が中国の支援を高く評価したとしても、なんら不思議ではない。

 だが口ではワシントンを口汚く罵りながら、その一方で71年4月の名古屋における世界卓球選手権を舞台にした米中ピンポン外交やキッシンジャーの秘密訪中を経て72年2月のニクソン訪中へと続く一連の北京の対米接近を、ハノイは裏切りと断罪。「溺死寸前の強盗に浮き輪を投げ与えるようなもの」と強く批判しソ連へと急傾斜する。かくて70年代末、鄧小平は“生意気”が過ぎるヴェトナムを懲らしめるべく対越懲罰戦争へと突き進んだ。

 あれから40年余。中国もヴェトナムも一党独裁が反米闘争ではなく、カネ儲けに好都合な政治制度だということ確信したはず。だからこそ、いま阿亮クン世代に聞いてみたいのだ。民族解放闘争、社会主義兄弟党の友誼や大義とは、なんだったんだい、と。  《QED》