【知道中国 468回】       一〇・十・念一

     ――「ぼく」は、いま、どこで、なにをしているんですか・・・

     『青春の北京 北京留学の十年』(西園寺一晃 中公文庫 昭和四十八年)

  
 この文庫本の末尾で「『青春の北京』は日中友好運動の指導者の一人で、日中両国間を往来する人々の間から“民間大使”として親しまれた西園寺公一氏の長男、一晃君が父親に連れられて北京に移住、北京第二十五中学に転入してから、北京大学を卒業するまで、十年間の体験を記録にまとめたもので、全編いたるところに、青春の思い出がよみがえっている」――こう「解説」しているのが、文革当時、北京からトンマなガセネタを送り続けた元朝日新聞特派員の秋岡家栄である。西園寺親子、それに秋岡・・・まさに一世を風靡した“日中友好屋”の揃い踏み。こうくれば、内容は推して知るべし。

 秋岡の「解説」の先を読むと、「西園寺家はやはり、北京においても名門であった。広い平和委員会の構内には、映画の試写室まで含めて、多くの建物があったが、門を入ってすぐ左が西園寺家の邸宅で、・・・数多い北京在住の外国人の間でも・・・秘書と、解放軍兵士の護衛がついていた。・・・私の印象を率直にいえば、公一氏は日本の革命家として、名誉ある待遇を受けていたといえよう」

 西園寺公一が「日本の革命家」であるかどうかは知らないが、著者も含めた西園寺一家が北京で、当時の中国の庶民には夢想だにしえない超優雅な日々、いいかえるなら“華麗なる革命貴族生活”を堪能していたことは確かだろう。正真正銘のダラ菅、いやダラ幹だ。

 「新中国は社会主義のまったく新しい国で発展を遂げている国だから、行けば学ぶことが沢山ある。必ず来てよかったと思うだろう」という公一のことばのままに、西園寺一家は北京に居を移す。著者が赤坂中学在学中の昭和33年のことだ。この本は、秋岡が解説しているように、中学から大学までの北京での「十年間の体験を記録にまとめたもの」だが、著者は中国人の同級生と共に、農村での労働学習、大躍進、「三年間にわたる自然災害」「中ソ論争」「プロレタリア文化大革命」を体験している。かくて「十年間の体験」のなかで、著者は中国の若者も真っ青といっていいほどの過激な毛沢東主義者に“成長”していった。

 当初、「ブルジョワ社会からやって来たひ弱で無知なぼくに社会主義中国を赤裸々な形で見つめさせるに充分であった。そしてぼくがその中で感じたことは自分には到底できない、今のままの自分では中国の人たちと同じようには絶対にできない、それが出来るまでは、本当に中国の人と一緒にやるためには今の自分を変えるしかないということだった。そして学友たちの姿を見ながら自分を変えねばならない、少しずつでも学友に近づかねばならないと痛感した」著者は、やがて過激な紅衛兵へと“翻身(生まれ変わる)”する。

 この本は「小徐は・・・紅い腕章を・・・ぼくの左腕に巻いてくれた。Tさんもぼくの前にくると、そっとバッチをつけてくれた。/『みんなありがとう』/ぼくはこみ上げる感動をかみしめながらそう呟いた」という感動的シーンで幕となる。ここでいう「紅い腕章」が紅衛兵の腕を飾った腕章で、「バッチ」が代表的文革グッズだった毛沢東バッチであることは、自明のこと。ところで「Tさん」は著者と結婚を約束したが遂には結ばれなかった女性のようだ。「終章」の「T同志への手紙」で、著者は「ぼくも君に負けないよう日本で頑張ります。どんなことがあろうと、決して毛沢東思想は手放しません」だとさ。ウフフ。

 ・・・とまあ、時代の狭間でオ気楽に生きた一家のノー天気な睡中夢譚でした。  《QED》